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2008年12月23日 (火)

Ajitaさんにさらに反論しておこう。

Ajitaさんより再反論がありましたのでさらに反論しておこう。


「教えの捏造」にしか興味がない/スッタニパータ&仏教思想の発見

http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081222/p2


まず彼の論理展開としておかしいのが、パーリ経典のお話を全てブッダが生きていた時代の説話と本当に信じ込んでいて、その前提で語っていることがあります。

例えば


>それは、ない。女性も悟れるのは釈尊の時代からのことで、阿羅漢の女性もたくさんいた。

>別に「龍女」が無理やり男に変身しなくても大丈夫だ(笑)。


これにしても、現在の考古学視点からは否定されます。

文献考古学といった分野では、尼さんが出てくる部分は後世の付加という見解が大勢です。

散文と韻文があって、だいたい散文のほうが古い内容であることが知られていたり(その限りとも言えないですが、大勢として)、散文の部分にはぜんぜん尼さんが出てこないなどがあります。

内容的に古いと思われるスッタニパータにも全く尼さんは出てきません。

そりゃそうですよね、森林で猛獣と対峙したり、穴倉生活などをしてる部分で尼さんが1人や2人で暮らすなんて現実的に不可能ですから。

ですので、尼さんが出てくるような部分は、教団の性質が変容して、開けた場で祇園精舎のような集団生活施設ができたりする時代に挿入された説話と言われます。


私はガンダーラ・マトゥラー仏マニアなので考古学寄りの見解に寄りすぎかもしれませんが、信者と言えど、そういう客観的視点で見ていくことが必要ではないでしょうか。キリスト教ならともかく、己の智慧を信じるべき仏教なんですから。

ともかく学術的にはそういう見解でパーリ仏典の考古学的研究は進んでおります。



>菩薩道を持ち上げてしまったおかげで、女性が悟ることが教理学的に難しくなったのは大乗の方だろう。

>部派仏教時代に正等覚者の定義がかっちり出来てしまってから、菩薩道こそ本道なんてことを言い出したものだから、もともとの仏教にあった平等思想が壊れてしまったのだ。>悪人が改心して、阿羅漢になるのも釈尊の時代から。アングリマーラのエピソードを知らないのだろうか。自分の心を向上させずに悟るということは、話にもならない妄語である。


意味が分からないですね。

どう平等思想が壊れたのか、女性が悟ることが教理学的に難しくなったのか、根本的に大乗仏教を全く理解してないか、曲解してるように思います。

そもそもブッダの境地は一人だけという上座部の思想こそが平等思想に反してるわけですよ。私を神格化するなと言ったブッダの意思を理解していない。


>これもこじつけだ。「多仏思想」は、部派仏教で釈尊が別格化された後に出てきた論点でしかない。論破済みなので繰り返さない。


ごまかさないでください。論破ではなく多仏説を矮小化して話をすりかえてるだけでしょう。

多仏思想で生まれた過去仏・未来仏の観念は、そもそもブッダの境地に到達しえるのは彼1人なのか?という上座部との対立点です。

上記でも述べたブッダの己の神格化否定に関する話であり、民間信仰としての菩薩信仰などに矮小化すべき話ではありません。

ちゃんと経典読めば、多仏は方便として法の人格化として描かれていることが分かります。法が語っているのです。

多仏思想は、つまり法(縁起の世界観)>ブッダということであり、法の各要素を人格化してありがたい教えを説いてくださるという分かりやすい形式で経典が描かれているわけです。

その後民間信仰として、そこに描かれる菩薩をありがたや~と拝む民衆もいたでしょうが、経典ではその後もずっと法の方便として多仏は描かれ、

あなたが指摘するような幼稚な多仏信仰に意味を狭めるのは認識がおかしいですよ。

大乗経典読んで、「菩薩なんてほんとは居ないんだよ!」と言われても、そんなことはみんな分かってるがな!って話なんです。

法の教え・理論を説明する存在として如来や菩薩が、各法の法則の化身として、それぞれ担当する理論を説くという形式に大乗の多仏経典はなっているのです。

そしてその根幹は法>ブッダというブッダ相対化の理屈です。

ブッダは自身が生まれようと生まれて居なかろうと、法は法としてあるのだというようなことを述べたといいます。ブッダを神格化することは平等性を本当に説くならばやはりおかしいのです。


>残念ながら、これも違う。マウリア朝は釈尊が活躍したマガダ国に由来する王朝である。

>経典の保存という点からすれば、マウリア朝でまとめられたテキストは、この上なく筋がいいはずではないか。


意味がわかりません。マウリヤ朝とマガダ国が同一文化圏の延長にあるということと、マウリヤ朝時代の要素が数多く経典に見られるという話になんの関係があるのでしょう?

「江戸時代の習俗が描かれてる部分が多いから、これは平安時代の書物と言われてるけど、それはありえない」

…という話が、文献考古学の世界では言われているわけです。マウリヤ朝の来歴と何の関係があるのかわりません。


言葉の意味合いなどでも古い部分と新しい部分の判別になります。

「夜叉」という言葉の意味合いや「居士」といった言葉の意味合いが時代により変遷します。

またマウリヤ朝独特の官職名などでも分かりますが、副官や大官といった表現はマウリヤ朝時代にしか見られないそうです。そういったものが関わる説話がパーリ経典には入っている。

都市の記述でも分かります。当時そこはそんな様子ではなかったはずだなどと、後世の説話であることが分かるのですね。

マウリヤ朝の首都パータリプトラが都会として描かれるのはマウリヤ朝のチャンドラグプタ王とかアショカ王とかの時代であるはずで、整合性が取れない。


ジャイナ教との関連性で古い部分を見抜くというやりかたもあります。

古い部分はジャイナ教とかなり近い表現をしている。煩悩の数えかたや、修行を完成した人を「ケーバリン」という呼び方をするような部分がたまにある。これなんかはジャイナ教の表現なのですが、ジャイナ教は仏教より古いまま延々変化無い表現を使っており、これらの比較により古い部分と新しい部分を見抜くことができます。

ジャイナ教と言えば、仏教経典の中にジャイナ教を言う部分がありますが、彼らは「4つの誓いを立てる」と説明されます。ところがジャイナ教の教えを調べると、3つだったり4つだったりします。4つのほうがかなり後の時代にそうなる。…とすれば、これが仏典に書き加えられた時期はかなりあとの時代のジャイナ教であるとなるわけですね。


些細な書き換えならともかく、説話全体がブッダが生きた時代では成り立たないものもいくらでもあります。

ですので…


>超一流の知識人たる僧侶とはいえ、人間が口承で伝えるものだから、いくら努力したところで文献が絶対無謬のまま伝えることが難しいのは当然である。


…なんて好意的レベルで捉えるのは妄信が過ぎるとしか言いようがありません。

アショカ王の治世に部派仏教の御用僧の長老らのバイアス入りでまとめられた経典であると考えるのが学術的な立場ではないでしょうか。

もちろん古い部分もあるでしょう。特に散文が古い。次にだいたいスッタニパータは古い部分多そうだぞ、というのが現在の考古学者の多くの見解ではないかと思います。

しかし相当な量の後世の書き換え・挿入があるというのはもはや常識ではないかと思います。


あくまでブッダ直伝を正しく伝えたというのは「信仰」の世界の話です。

当然それらはブッダの話であると同時に、高弟の意思や説が反映されているのでしょうし、

それを大事に学ぶという視点はそれらを編纂した長老に連なる弟子であるあなたがたにとって正しいと思います。

ブッダの金言でないと信仰が揺らぐというのではおかしいのではないでしょうか。

ブッダが居ようと居まいと、語ろうと語るまいと、法は法としてこの世にずっとあるのですから。

そんなブッダの金言という信仰に無理やりこだわる必要無いと思いますよ。


>大乗経典の作者たちが、野放図な経典捏造を行ったことで、ブッダの教えの本質を考え、

>議論するための共通の基盤までが失われてしまった。その弊害は計り知れない。


妄信がまずベースにあるのが問題です。スリランカ伝パーリ経典は既に経典捏造の産物です。(あなたの理論で言うならば)

ブッダの金言という権威が必要な信仰ってなんなんでしょうか?

高弟の説や考えが入っても、それが法の真理を語っていればそれは正しい。それでいいのではないでしょうか?

ブッダの金言であっても間違ったことをもし語っていればそれは真理ではない(もはや完全にそれを切り分けることは不可能ですし、また間違ったことは言ってないように私は思いますが)。

あなたがたはブッダの金言であり正しく伝わっていると妄信し、その前提を議論していない。

議論する基盤が大乗がブ「ブッダの真の思想」「ブッダが悟った法とは?」なのに対し、あなたは経典の正当性を妄信し、教条主義に陥っているわけです。しかもその教えはしょせんアショカ王時代の上座部系僧侶のバイアスかかったものでしかないのに。

経典崇める前に、この世を見ましょう。


>「己の智慧を信じよと残して入滅したブッダ」とは、どこの誰だろうか。

>釈尊は、己を洲として真理を実証せよ、と述べただけである。意訳にしてもおかしい。


どこが?


中村元氏訳を引用します。

「アーアンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、

誰でも自らを島とし、自らを頼りとし、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとし、

他のものをよりどころとしないる人々が居るならば、彼らは我が修行僧として最高の境地にあるであろう。」


その数行前にも延々、自ら考え、自ら感じ、自ら進む必要性をとくとくとアーナンダに語っております。

己の智慧によって進みなさい、私が無くとも誰であれ涅槃の境地に至りうるはずだ、と明確に述べてると思います。

法(この世の法則=縁起)を正しく見抜き、それに従う生き方をしていきなさい。それぞれ自分で考えて、というはなしを死を目前にして語っているのです。

ブッダ亡きあとの仏教徒の在り方を述べていると思います。

教条主義じゃやはりダメなんですよ。この世の法に従った正しい生き方こそが必要。眼前にある「法」こそが、あなたがたの師であると述べていると思います。


のちの高弟がまとめたバイアス入り経典より法を信じるというベクトルを取ることは決して異端ではありません。

法がまずあり、その参考として経典がある。そう考えるべきなのです。順序が逆なのです。

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