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2008年12月17日 (水)

大乗成立過程と、スリランカ伝経典の来歴について

前記事続きで、大乗成立過程の認識における上座部信者さんとの問答です。


まあ読んでいただくがよろしかろうが、凄く簡略に要約すると、大乗成立に在家は関わっていない!テーラワーダ仏教こそ唯一の釈尊直伝の教えを寸分たがわず残す宗派!ということですよね?

あと「小乗仏教」もしくは「上座部仏教」と言い換えるものは、大乗という偽経が作り出される過程で創作されたイメージでしかない!ってことでいいのでしょうか?


大乗仏教在家起源説という白日夢/仏教理解の逆さメガネ@ひじる日々 東京寺男日記

http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081216


結局「なぜ大乗仏教成立に在家集団がおおいに関与してるという考えが間違いと言うのでしょうか?」という質問ははぐらかされてるように思います。

ウソだウソだでは自説強弁にしかならないので、もうちょっとつっこんだ理屈が欲しかったです。


上座部仏教団が自称する「我々の伝えるパーリ経典こそが第一次結集時の経典である!」という毎度のファンタジーを言ってるだけに思えます。

信仰としてそれは結構です。ですがあれほどまでに言うのですから、考古学的な知見でなにか私の知らない知見があるのかと思ったらどうも無いご様子でがっかりです。


結局、テーラワーダ信者の藤本晃氏が書いている説のまんまという認識でよろしいですよね?

(あと佐々木閑氏の説を踏まえてるのかなーと)


パーリ聖典の源流(釈尊の言葉は失われたのか?)

http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta1.html


上記藤本氏の文章は立て板に水で見事なので何も知らないかたが読めば信じてしまいそうになるかもしれませんが、

よくよく読めばめちゃくちゃで超考古学の類です。

ことごとく根拠が突き詰めると、現在の上座部諸国の僧侶を見れば分かるだの、教えに触れれば分かるだの、とても学問とは思えません。


現在の知見では、原典がパーリ語であったとは到底考えられず、彼らスリランカ上座部系の部派の流れは、上座部・大衆部ともに分派に分派を重ねた部派仏教乱立の時代の、上座部系のどれかの派閥の末裔という見方が普通であろうと思います。

それを一時結集からの唯一の正統仏教というのは信仰としては結構ですが、学問ではありません。



歴史を検証していきましょう。

まずブッダ死後の第一次結集があります。

これは死後に弟子が混乱する教えをまとめるために行ったもので、この時点では大半はまとまっていたと思われます。(デーヴァダッタ派などはあるにせよ)


その後、上座部と大衆部の分裂があります。(根本分裂)

この根本分裂の原因は南伝と北伝では伝わる対立点が違います。

南伝では戒律を巡るもので、ブッダは死の前に些細な戒律は変えてもよいよと述べたとのことですから、戒律に捉われて仏道と本末転倒になることを懸念したのでしょうが、ゆえに変えようとする大衆部との間に分派が起こります。

一方北伝では、出家者の目指す境地についての論争と述べる。すなわち仏、ブッダを目指すのか?ブッダは後にも先にも1名だけで我々はそれは目指せ得ないのか。

この伝承なら、まさに後者の思想は大乗に連なる思想でしょう。多仏説へ繋がる発想ですから。

ブッダは、「後にも先にも真の悟りを開いたのはあなた様だけです」と賛美する弟子を諌めて「なぜそんなことが言える。後も先もおまえは分かるのか」と注意しているように、こういう発想は破戒では無いというのが大衆部及び大乗の考えで、戒律を守っていればそれでよいなどという上座部の発想こそが堕落としたのでしょう。

このように大衆部と上座部の分裂はなにも大義名分が無いものではないわけです。仏教解釈の違いがここに既に起こっているわけです。


さて、南伝北伝、どっちの説を取るべきだろうか?

私の考えは、*根本*分裂という話なら、おそらく順序的には南伝が正しいのではないかと思います。

しかし分派の軸は戒律解釈だけではなくのちにさらに教学における論争も生むわけです。「有名なものに、上座部の主流の部派である説一切有部と大衆部の縁起認識における論争がありますが

数々の点で各部派は教義論争を繰り広げており、その中に縁起認識(法の認識)や、悟りの完成についてなどの争点が各種生まれていくのでしょう。


さて、この戒律を巡る根本分裂を生んだ会議が、「二次結集」と呼ばれるものです。

この二次結集で上座部と大衆部は別れ、さらに各部内での分派が活発に起こり、部派仏教の時代になります。

(南伝による。北伝の有部の伝では、大衆部と上座部の分裂はアショーカ王の時代となっている

恐らく戒律の相違=大衆部という教団ではないのかもしれません。その後時間をかけて大衆部という教学の違いへと順次発展するのでしょう。しかしその分裂の根っことして、この二次結集は大きな分岐点ではないかと思われます)


その後、南伝仏教にだけ三次結集が伝えられています。

これは分派している仏教をまとめようと、あのアショカ王が国家認定の正統仏教を決めたものです。

これが残るということは、現在のテーラワーダ仏教の派閥は、アショカ王が国教に定めた宗派の系譜であるということになります。


アショカ王碑文に5部の経典がなんちゃらとあったりしますし、その当時の流れを汲むことは間違い無いのではないかと思います。

ただし、この国教認定された「アショカ王認定部」がその後分家していないとは言えないでしょう。アショカ王認定国教部派の正統派の流れなのか、そこからの分派なのかは断言し得ない部分でしょう。

下って大乗仏教成立時代には、部派のうち上座部の説一切有部という部派が隆盛していたことが伝わっています。

藤本氏は、我々のスリランカに伝わった経典を持つ派閥こそが正統派で説一切有部は分家のようなものいいですが、普通に考えるなら、説一切有部こそが「アショカ王認定部」、すなわち上座部系のの教学の正統な後継者団体であり、それと違う派閥であるとするならそれは分家の1部派であると考えるほうが自然ではないかと思います。


なんにせよ、いくらアショカ王が国教決めても、その後もずっと異宗派は顕在で、そのまま大乗成立期でも部派乱立であったという認識であるべきで、そのうちの上座部系の1部派の流れがスリランカに残ったというべきでしょう。他の仏教は全てインドから滅んだ!と上から目線ですが、キミらだってインドで滅んでスリランカに逃げ込んだだけではないかというはなしです。



次に、大衆部は滅んで、大乗成立期には存在しない、だから無関係というのは認識がおかしい。

アショカ王は国教を定め、それを全土に碑文立てまくって布教したわけです。それが残るから、大衆部についての碑文が無いから大衆部系が滅んだというのは無茶です。国家認定正統派でないというだけです。

399年、法顕がインドを行く行程で、大衆部の律である『摩訶僧祇律』などを入手しているばかりか、デ−ヴァダッタ派教団まであると伝えているくらいです。

部派は依然乱立していたと考えるべきです。また遺跡にも大衆部の名はその後も残ります。

アショカ王は深く仏教に帰依し、戦いをやめてしまいましたし、武力で禁教などはしていないでしょう。理屈で屈さない人々がおいそれと部派の教学を捨てるとは到底思えません。

単純にアショカ王認定部派が最大勢力として国家事業としての仏教布教を担ったというだけかと思います。


中国における仏教伝来史を考えると、大乗仏教成立時点で、大衆部系の部派や教学が滅びていたとは到底考えられないわけです。

(参考:http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site55/china10.htm

大乗成立時点で、インドは上座部のみになって、大衆部は滅びていたという考え方こそが幻想です。

アショカ王認定部派による布教と教団形成が進んだということであって、その国家権力によるお墨付きを南伝仏教が正当性の拠り所として誇ってきたといったところではないでしょうか。

しかし教学において屈しない部派乱立は依然続いていたと、中国からの探検者の伝えるところからは伺えるわけです。

現にアショカ王がいくら国教を定めて広めようと、ジャイナ教もバラモン教も全く滅んでいないのに、大衆部だけが滅んだと考えるのは都合が良すぎます。そんなわけないでしょう。

三次結集とはアショカ王認定部派にお墨付きを与える会議であり、それに参加していないことをもって既に滅びたという考えはご都合主義です。

一次結集に参加してないデーヴァダッタ派もバラモン教もジャイナ教も依然存在していたと考えられますし、大衆部だけが滅びたとするのは考古学としてはおかしいです。現に法顕は大衆部系の文献をその時点ですら伝えていますし。


さらに言えば、時代が下ってクシャーナ朝のカニシュカ王がインドを含めた広い領土を治める時代に、彼は仏教に帰依し、ある部派を国教に定めます。それは説一切有部であったと伝えられます。

このとき第四回結集を行っております。

アショーカ王の三次結集が上座部の国教化であったなら、この四次結集は上座部内の部派の正当性会議といったところでしょう。

南伝にはこの第四回結集が載っていないということは、国教になる上座部界の正統派教学と、彼らの部派が分家したのが第三次と第四次の間であることが推察されます。

スリランカにテーラワーダ仏教が伝わった次代は紀元前2世紀(紀元前200年から紀元前101年)とされますが、要は現在のテーラワーダ仏教は第四次結集に至る説一切有部に押された一つの上座部系部派の末裔であろうと推察するべきだと思います。


年表にしてみましょう。

仏滅年代が問題ですが、アショカ王による国教統一を図る三次結集が仏滅200年ごろと

南伝には伝わりますから、アショーカ王在位の紀元前268年頃 - 紀元前232年頃から逆算して

仏滅は紀元前468年頃 - 紀元前432年頃とします。間をとって、紀元前450年とでも仮にしましょうか。(あくまで仮ですが、まあだいたいってことで)

こんな感じでしょうか。


紀元前450年頃 仏滅

紀元前350年頃 二次結集(上座部と大衆部の根本分裂)

紀元前250年頃 それぞれがさらに分かれに分かれる枝末分裂の時代

紀元前250年頃 アショカ王による国教統一を図る三次結集。

紀元前155年頃-紀元前130年頃 ミリンダ王の問い

紀元前200~100年間 スリランカへのテーラワーダ仏教渡来

紀元前100~1年間 最古の大乗系経典とされる般若経系の経典

紀元0~100年頃 ガンダーラ・マトゥラー仏

紀元150年頃  カニシュカ王による第四次結集 上座部、説一切有部の国教化


さて、それではこの年表のどの時代まで「大衆部」は存在したのだろうか?

これにはかなり具体的な証拠が残ります。ガンダーラ仏とほぼ同時に現れたマトゥラーの仏像群には寄進した教団の名前が記されており

大衆部、説一切有部、正量部、法蔵部などが確認できるという。特に大衆部が多いそうです。

つまりカニシュカ王による4次結集の直前でも大衆部は現存していたわけです。

その時点で存在するということは、大乗のはしりである般若系経典成立の時代に大衆部は存在したわけで、現テーラワーダ仏教のパーリ経典の結集記事に大衆部の話が出てこないことを持って、大衆部はアショーカ王の三次結集で国教の地位を得られず消えうせたというのは大間違いなのです。

マトゥラー仏にはジャイナ教の像も多く残りますが、大衆部仏教は、彼ら国教派仏教団(からはジャイナ教などと同じようなその他宗教になったと考えられ、結集とは無関係に存在していたと考えられるのです。ジャイナ教が結集に参加してないようなものです。

そしてそれは仏教遺跡からは、大乗経典どころか大乗成立以後も存在していたようなのである。しかも地域によっては優勢な地域すらある勢力であったと考えられるのです。


ガンダーラとマトゥラーの仏像の形式を年代を追っていくと相互の影響が見らだすことから、交流があったようですが、

それならばマトゥラーの大衆部の教学がガンダーラ地方の説一切有部系の教学にも伝わって論争を起こすことはそうとっぴではないでしょう。


マトゥラー仏の担い手は、描かれる神々から、大衆部、そして非アーリア、つまり下位カーストに置かれた先住民族ドラヴィダ人の影響が強いという説があります。

つまり、彼らの文化圏に大衆部は根強く広がっていたと考えられます。

大乗経典には女人も悟りうる、在家も悟りうる、悪人も悟りうるといった特徴的な経典がどんどん出てきますが、

このような弱者救済の平等論、すなわち菩薩心というものはどこから出てきたのか?と考えると、やはりマトゥラーに勢力を持っていたらしい大衆部系の思想は無視できないでしょう。


一方北西の異民族の地、ガンダーラ。大乗仏教の出現場所ですが、このヘレニズム文化という文明の衝突といえば仏典には有名は「ミリンダ王の問い」があります。

北伝南伝ともに伝わる、ギリシャ王と仏教団の長老が討論するという稀有な文献ですが、このミリンダ王は実在の人物であり、時代が分かります。

在位は紀元前155年頃-紀元前130年頃とのことですので、この説話が成立するのはそれ以後であることが分かります。

二次結集、三次結集よりあとにも追記することもあるという証左でもありますが、それは論書であるしどうでもよく、それよりその内容が重要に思われます。

その内容は、大乗の縁起による世界全ての認識という教学、そして空思想の走りとも言うべき論理の発端が語られており、大乗仏教の教学の前身が既に現れつつある当時の国境地帯の教学の様子が読み取れます。


大乗は教学的には世の全てを縁起で説明する世界観と、ゆえに慈悲による世界の救済という菩薩行というこの両者が合わさったものと言えますが、菩薩精神の由来をどこへ見るか?と考えるならば、マトゥラーの大衆部系の低カースト層への救済の文化の影響を考える発想は妥当に思われます。

大乗経典は早い時期から在家が悟りうることを示す維摩経などがありますし、華厳経系における救済の論理など、空論と菩薩行はその両輪です。

そして仏像の表現の進展史から、マトゥラーとガンダーラに接点があったということも分かってきています。それははたして仏像の表現技法だけのはなしだったのでしょうか?そんなはずありません。寄進の様子からマトゥラー仏文化を担ったと思われる大衆部系の理論も知りえたはずなのです。

それを取り入れたガンダーラの空論系の教学を大成した僧らが、華厳思想として菩薩行と縁起による世の認識とを統合していったと考えられます。

やはり在家に悪く言えば迎合した、よく言えば平等主義にあった大衆部の思想はガンダーラ大乗仏教における菩薩行や徹底した平等思想に影響を与えたと考えられると思います。


さて、大乗成立の過程と、その当時においても大衆部が健在であったらしいというはなしをここまで書きましたが、本題とはズレる予断ではありますが

現スリランカ伝来上座部系仏教団のパーリ語経典が唯一正統で釈迦伝来から違わず伝わっている!なんて思想が学術的には完全に否定されているという話をしたいと思います。


現在の知見では、スリランカ伝来パーリ語経典はアショーカ王時代の仏典の要素を強く残す経典であろうと言われております。

つまり三次結集時にまとめられたマウリヤ朝国教系経典の流れ。


といいますのは、彼らがブッダ直伝の教えと強く信じる教えも、よくよく調べると明らかに後世に付け加えられた記述がたくさんあるのです。

有名な話では祇園精舎なんて立派な僧がたくさん集まるような場所ができてくるのはずっと後の時代であろうなどがありますが、

他にも同時代のジャイナ教との比較などからも、仏典の中でジャイナ教について触れるくだりで、その記述のような状況のジャイナ教はもっとあとの時代であったりとかするんですね。

僧侶の衣服について決まりを語る部分も、他のボロ布を着ろと言ってる部分と違って、後世の仏教団が巨大化したのちであることが分かるとか。

あとはパーリ語に時代により違いがあり、古い部分と新しい部分があるなどがあります。言葉遣いでも時代の変遷が分かる部分が各種あります。マウリヤ朝時代(アショカ王時代)特有の官職名が出てきたり、明らかにブッダ存命中の話ではないものがたくさん混ぜ込まれています。


さらにアショカ王時代=三次結集時代の国教の流れを正確に伝えているかと言えばまた違う。

アショカ王碑文の内容における認識とは違うもっと後世の発想も伝わっている。

例えば天の認識。アビダルマを見れば明らかですが、天が何層にもなる発想があります。アショカ王時代には天1つ。単数形の単語が用いられます。仏典の中でも古いとされる韻文の部分ではやはり単数形が常に使われます。つまり天が複数というような表現が現れる部分はかなり後世に後付けや、書き換えが行われている。


このような分野の研究はドイツの研究者を中心に70年代に既にかなり進んでいたそうで、日本では中村元先生がかなり詳しく報告してくださっております。

スリランカ伝パーリ語経典がブッダ存命中からほとんど変わらず伝わってるなんてのは、信仰の世界では結構ですが、考古学という世界では通用しない話です。

学術的視点で読み解けば、スリランカ伝パーリ経典においても、幾度も編纂が行われていると考えるべきなのです。


もちろん中には古いと思われる部分もあり、ブッダ存命中や直後の一次結集のものをかなり正確に伝えているであろう部分もあります。

例えばスッタニパータは古いと言われます。とは言えこれですら後世の編纂のあとがあるわけでして、少なくともほとんど書き換えられていないブッダ本来のまま伝えられた教えという上座部教団の自称は学術的には否定されていると思います。

現代に伝わる仏典は、原始仏教団時代に纏まったものではなく、部派仏教時代に部派で纏まったものであるという前提は必要かと思います。


あと、口伝により長らく伝えられたことにより、口伝のほうが正確に伝わるのだという反論がありますが、

散逸する、途絶えるから文字としてまとめることになったという事実がまずあることは踏まえなければならないだろうと思います。

紀元前1世紀に出たとされるインド中部にあったガチな上座部系の有部宗がスリランカ伝の宗派とほぼ同じ時代にはじめて文字に記す際の話が残っております。

カタエンニシ(有部宗を組織した仏教者)の弟子が紀元150年前後に『大毘婆沙論』という上座部の集大成の経典を編纂します。

カタエンニシの言葉として、これまでは口伝で師匠から弟子へ伝えてきたが、記憶のいいひとと悪い人が居る。記憶のいい人が他に伝えないうちに死んでしまい多くの教えが失われていく。それを防ぐため、多くを聞き伝えている高僧を集めて文字に刻むということです。

もちろん部派時代になって覚える内容が増えたという一面も踏まえるべきですが、口伝ならば正確に伝わるというものではないと当の上座部自身が述べているのです。記憶力に頼る以上、伝わらないときは伝わらないわけです。

そして実際そういうことがあると述べられております。

ここから分かることは、少なくとも僧侶がみな共有して全て記憶しているような状況には無いということです。あれとこれは彼は覚えているが、それとどれは知らないなどということが往々にしてある。このあやふや状態では、当然記憶違いや、ニュアンスの変化などもあるものと考えるべきなのではないでしょうか。

なんにせよ、記述に移行せねば伝承がマズい状況にその時代既に陥っていたという現実があり、その時代に編纂された経典が今に伝わっているものであるということです。

はたしてそれを釈尊直伝の正確に伝わった唯一の聖典と言うべきでしょうか?


以上、大乗成立と在家に迎合した大衆部の平等思想はやはり関与する余地があると考えられると思います。

またスリランカ伝パーリ経典が一次結集にまとめられた教えを口伝によりそのまま伝えられたと考えるのは無理があり、アショカ王在位期に結集でまとめられた上座部系の部派の国教をベースに、部派独自の色を多少加えたものと考えるのが妥当ではないかと思います。

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