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2008年12月20日 (土)

『徳一と最澄 もう一つの正統仏教』

この本を読み終えました。

『徳一と最澄 もう一つの正統仏教』

著者:高橋富雄

出版社:中央公論社(中公新著)

ISBN:4121009754


あの三一権実論争の法相宗徳一の研究と論考書。

天台の怨敵である徳一の痕跡は中世の天台の隆盛と応じた結果だろうが、ほとんど残っていない。

徳一の著したとされる書物名は沢山残るが、現物となるとたった1冊、真言密教へ異論をとなえた『真言宗未決文』ただ1つであり、

最澄との間に激烈な論争を行った数々の著書は今に残らない。最澄の反論書の中や、のちにこの論争に決定的役割を果たした源信の著書内に引用のかたちで残るのみである。

この本はそのあたりを丹念に追った書籍で非常におもしろく読めました。


最澄による天台宗の日本伝来の結果、南都の旧仏教との間に論争が起こったという見方は短絡的で、

この天台との間の三一論争は中国天台宗から既にあり、その延長線上にあると徳一は見抜いて論争を行っていることに驚いた(残る彼の言動からそれは分かる)。

玄奘三蔵が諸経を精査して唯識を中心に纏め上げた天竺由来の正統の正統とも言うべき法相宗と、

法華経こそ王教とし、その他はその下にあるとする新興派閥の天台宗はすでに中国で三一論争で討論状態にあったのである。

(もっと言えば法華経という経典事態がかなり独特な教団で生まれた経典と考えられるし、天竺からこのあたりは対立関係にあったのかもしれない。)


源信の著書には、恐らく得一が持ち出した話かと思われるが、

唐の大雲寺の慧沼が『能顕中辺慧日論』を著し、法宝の『一乗仏乗』(一乗仏性究竟論)を破すとし、『慧日羽足』という『能顕中辺慧日論』を支持する注釈書的なものを徳一が書き、法宝の一乗論を論破し、慧沼の理論を助けたという。

徳一は凄い知識の僧であり只者ではない。東北の田舎坊主が最澄様にいちゃもん付けたなんて認識は間違いで、唐の偉大な僧の時代から続き、大乗仏教根幹に関わる論争としてこの対天台論を挑んだのです。

一方最澄は当初どうもそこまで重大な論争とは思ってなかったきらいがある。いよいよ徳一の論旨の明快なことに焦って本腰を入れだす様子が分かります。

しかし、最澄のキレは正直悪い。得一の論旨を頭から否定するということは、弥勒・世親そして玄奘は間違い!ということ。法華最高の根拠を隋の天台大師智顗に求めるだけでは、弥勒・世親・玄奘の権威の前には旗色が悪いのです。

その反論も、一乗と三乗の関係性を説く三論宗や、全てを一乗に包み込む華厳宗に既に語られてるもので天台の理論は何も無いではないか!と、各宗各僧の理論を次々出して得一は論ずるわけです。

相当な強敵です。天台は本場唐から持ってきた最新の教えだよ!だけではとても戦えません。

最澄の死を持ってこの論争は天台側では勝利のように言いますが、その後も延々論争が続いたとおり、決して最澄の勝ちとは言えないと思います。


ただ、天台には名だたる僧がその後も生まれるのに対し、東国徳一の寺々は有能な弟子は生まれません。

その後の三一論争も、応和の宗論(963)の論争でも結論を見ないが、ここで三乗を代表するのは南都の仲算(法相宗)なのである。東国の徳一の寺々からその後徳一教学を継ぐ見るべき僧を生みえなかったことが結局得一vs最澄を決定したわけです。



また、徳一について、三一論争の得一という認識ばかりが先行しますが、徳一という人にとってこの論争はたいした比重を占めるものではないという認識が必要ではないかと思う。

最澄について、三一論争の人という部分はその生涯を語る上でちょっとしたエピソードであるように、徳一にとってもまたこれは細部でしかない。

東国の教主徳一という部分こそが得一伝として最重要な部分なのである。

ひとり東国に向かい、奥州などに48箇所、それ以外にも多くの伽藍を建て、今行基と言われたという存在感が軽視されているように思う。

のちの奥州ではない。蝦夷の地である奥州に教化の旅をする偉大な僧という視点が必要に思う。もしかしたら空海や最澄の唐入りに匹敵するくらいの偉業かもしれない。

少なくとも、高野山を仏教の地として開拓した空海や、比叡山を造った最澄の仕事と匹敵する偉業と言える。


この東行についての論考が興味深い。

徳一の作ったとされる寺々と清水寺の関連性についての指摘が多く紹介される。

得一の根本大寺である慧日寺は、先に紹介した慧沼『能顕中辺慧日論』などに見える慧日だろうが、古称を清水寺といったとの伝承が残る。これと京都清水寺の関連性を指摘するのである。

清水寺、つまり坂上田村麻呂が蝦夷制圧に関連する寺である。元法相宗という。

また、『清水寺縁起』を思い起こすと関連性が見えてくる。

清水の滝に修行する行叡居士に延鎮が出会う。この行叡居士、数百年ここで修行してるという。観音の化身とも言われ、人というより神様の類。

この行叡居士が「我、東国修行の用意あり」と告げ、留守を延鎮に託し、もし自分が帰ってこなかったら寺をこの地に観音堂を建てて祀れと言い残し去るわけです。

徳一伝を伝える書物には「天告を得て東州に修行す」と理由を伝えるものがあり、あえて清水寺と会津に立てた自身の寺に名づけたのは、やはり京都清水寺の観音の天告により東国へ下ったのではないか?


東国の人々を仏教に教化する使命を清水の観音より受け、天告により布教に向かったという視点は、これまで徳一について天台的視点や三一論争視点でしか捉えてこなかったので非常に斬新でした。

清水寺と名づけるからには理由があるわけで、『清水寺縁起』に見る行叡居士の本意や、坂上田村麻呂に見る観音の加護により東国制圧といった部分との関連性はやはり無視できないのではないか、という指摘は一考するべき視点だろう。


わりとこじつけすぎじゃないか?と思うような意見もある気がしますが

大勢としてはこの書籍の見方でいいのではないかと思います。

正直、三一権実論争は水掛け論の応酬でどうでもいい感じなのですが、それらを丹念に追うことで、徳一という人物の奥深さが発見でき、大変興味深い書籍でした。

(結局徳一が言ってるのも反する最澄の意見も、系譜の正当性を争ってるだけであって、天台の法華経こそ王教という意見と、玄奘の教相判釈と、そもそも違う派同士でどれを根拠経典とするか正統正統言い合ってるだけで答え出ようが無いような気がします)

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