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2008年12月12日 (金)

仏教美術としての刺青を考える

仏教美術の世界は、最近では博物的な視点が広がり、高級な絵画や像だけでなく

江戸期の民衆の信仰の雑多な護符やら、田の神の石像だの、民衆生活に密着した雑多なものまで

今ではよく史料価値が認められまとまってきています。


ですが、仏教美術史ですっぽり抜け落ちているモノがあります。

それが…『刺青』


天部だの明王だのは定番の図柄で、梵字なども定番。

しかし美術的価値が広く認められ、その図案がきっちりまとまってるかというと否。

もったいない。凄い絵がたくさん潜んでいます。

モノがモノなので美術品収集の対象にはなりえないのですが、裏の世界でひっそり世に知られず消えていくにはもったいない絵が数多くあるように思います。

怖いオニーサン関係が多いのでアカデミックな方面の研究者も入りにくい世界なのでしょうけど、写真等で残していけば絶対将来資料的価値高いと思うのです。


もうすでに江戸期や明治の名人による作例など写真に残らず消えていったもの多いと思うのですが、

これからは刺青にも美術的価値をもっと認めて、残していく文化があっていいと思う。

写真集めて、刺青作家の作品展とか普通に美術館であっていいと思う。


我々日本人は縄文はもとより、卑弥呼の時代から全身に刺青を施していたと中国の国史にあります。

その南方的な伝統を汲む我々は、刺青を単なる蛮習とするのではなく、その価値を認めてもいいと思う。ヤクザだけのものにするにはもったいない。

私自身は刺青全くやってないですが、見る分には凄い造形で非常に素晴らしい絵が多いと思う。

最近刺青の図案集を読んで、これは凄いと思いまして、そんなことを考えました。

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