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2008年12月14日 (日)

上座部仏教の呪術

昨今原始仏典!真の仏教だ!と上座部仏教が一部迷える若者のあいだで人気です。

同様の文脈でチベット仏教も人気だけど、正直かつてニューエイジにハマってたようなスピリチュアルな層の若者がそれらに幻想抱いてるだけのような気もします。

自称上座部の本場で学んできた!チベット・ネパールで学んできた!という胡散臭い日本人が立ち上げたような新興宗教もあるようですし、それってヒマラヤで本格的な真の密教を学んできた!と自称して勢力を広げた麻原彰晃と同じですよ。

その権威付けでバイアスかかってしまうようじゃあ麻原にころっと騙されて傾倒した馬鹿な若者達と同じです。権威主義で看板主義で非常にみっともないことでもあります。

真の仏教目指すならまず権威という執着から脱却する価値観を持たないと。


いや、上座部もチベット仏教もそれぞれ大乗派の我々が軽視していたような部分を思い出させ、非常に魅力的で尊いものだと思います。しかし舶来崇拝とかで幻想抱いてるみたいな薄っぺらいもので傾倒するのはどうかと思います。

私自身は…今の時代大乗も上座部も金剛乗も無いわ!全部ブッダの考えを継いだ諸説であり、全てフラットに捉え、学び、そこから取捨選択して己の仏教観を考え抜くのが仏教というもの。どれかを盲信するような教条主義に陥って、結果考えることをやめた時点でそれは仏教ではない。…って考え方ですので、舶来だからなんかいいものだろうとかそういう権威主義者は糾弾したいです。間違っている。

(さらに言えば、ブッダの行程を見ると、上座部的なベクトルに偏るのはあくまでバラモン苦行僧の文化圏に生まれた弟子らが作った方向性で、大乗的な世の救済、慈悲という視点はむしろブッダの本来の思想であると考え、大乗的価値観をベースにやはり置いています。縁起説→華厳思想→菩薩業という方向性です。その上で、上座部、金剛乗も参照として価値を見出すといった感じ)



さて本題。

上座部仏教について、彼らは自身のパーリ語経典こそ、ブッダ直伝のままの本来の経典と言っており、それで真のブッダの教え!とホンモノって言葉に弱い権威主義者のペラい若者がハマったりしてますが、これはあくまで彼らの自称です。

現在の仏教史研究の視点では初期の経典がパーリ語であったとは考えにくく、成立は大乗ほどあとではないにせよ、少なくとも本来の仏典というのは違う。

説話によっては北伝仏教のほうが古い記述とされる部分が残ってることもあるほどで、各派の経典がいろいろな経緯で複雑にまとまりながら北伝と南伝で伝わっていったのです。

上座部経典は初期の苦行的な戒律重視教団の流れをよく残す経典ではあろうけど、そもそも戒律重視教団が本来のブッダの教えなのかからして謎なのです。

提婆達多の教団分裂の説話見ても分かる通り、ブッダはバラモン教的苦行主義を諌め、対機説法に意地でも拘って戒律明文化を頑として受け入れなかったのですから。

恐らく当時のバラモン僧的価値観が残る弟子達の結集で戒律や教えはまとまっていったのでしょうが、本来中道を説いて諌めたはずのバラモン僧的苦行主義に時を追うごとに寄っていかなかったのか?もしそうなら、在家中心に起こった大乗革命はむしろ中道であり、すなわち原理主義であり原点回帰になる。

このように、上座部が必ずしも正しいブッダの教えだかどうだかなんてのは言い切れないわけです。もしかしたら大乗のほうがブッダの思想に近いかもしれない。

しょせんどれもこれも後世の弟子達が己の解釈で纏めた経典にすぎないのです。

ですから、思い込まず、参考として思考を続けることが仏教では求められます。経典をあえて生前作らなかったブッダのそこが深さと思います。それぞれ常に考えなさいと言ってるわけです。

経典はそれぞれの弟子の仏教徒の説。そこでは上座部も大乗も等価ですよ。どれもこれも歴代高僧のブッダ思想の解釈であり、説。それらを読んでそれぞれ深く思索することが仏教には必要なのです。

「誰かが言ったから」とか権威に媚びて、盲信することが仏教に最も反することなのは、度々ブッダ自身が己の神格化をする弟子を諌めるくだりでも明らかでしょう。ブッダすらも疑え!というのが仏教。考えることを止めてはならないのです。


あと上座部盲信者の言でよく聞かれることに、大乗は密教とかマジナイ要素がいっぱい入っていてくだらない!上座部はそんなの無いしホントの仏教だよ!というもの。

これは幻想持ちすぎ。タイでもどこでも上座部諸国にマジナイ要素はいっぱいですし、上座部にもパリットと呼ばれる各種呪術が存在します。

それ以外にもいろいろ土着の呪術が広く根付いて習合しており、決して戒律で生きるだけではやはり無い。

タイなどで度々僧侶による悪魔払いの生贄事件が起こって報じられていますが、このあたりからも分かるように、呪術と完全に切り離せていないということも理解しなければならないだろう。

このあたりちゃんと触れる人が余り居ないのはなぜだろうか?


研究者のあいだでは、上座部・大乗と安易に切り分けて、上座部は戒律主義で呪術を否定なんて言説がおかしく、そんな単純に上座部仏教は画一化できないということはもはや知られた話しでしょうが

近年の上座部仏教ブームでは、権威主義で、権威ある何かに縋りたい弱い若者にあえてそのあたり隠して布教してるような気がしてどうかとも思う。

チベット仏教はチベット仏教で、インド後期密教ほど重視してないとは言え、性と関連する呪法や髑髏を使った儀式など、歪んだ部分も多く持つ視点が抜けている。チベット仏教はいろいろな経典をなんでも集めたので、世界一の仏教理論図書館のような質の高さも持つ一方で、インド後期密教のエッセンスも取り入れてしまっていることは認識しておくべき部分だろう。(もっともダライ・ラマなど賢明な昨今の指導者の改革で、蛮習はどんどん衰退の方向にある。彼は活仏すら自分の代で終わらせると、迷信を迷信と喝破し、チベット仏教を進化させようとしている偉人でもある)

昨今の上座部やチベット仏教の若者の間のブームを見てると、そのあたりの(言い方は悪いですが)ヨゴレ部分をあえて触れないでいいとこばかり言ってて危なっかしいとも思います。

オウムだって性のイニシエーションなんて最初は隠して、ヒマラヤの奥地で修行した真の密教である!と若者をたぶらかしたのを忘れてはならない。布教のために「真の」なんてことを言う人こそ怪しまねばならない。「真の」という言葉に惹かれて上座部その他に惹かれるということは、オウムに傾倒した若者と同類の人間であるということ。恥じねばならない。




ではやっとこさですが、上座部仏教における呪術についてですが、まず有名なのがパリットでしょう。

今回はタイ仏教における資料をもとに話しますが、バングラデシュなどでもパリットはあるようなので、別にタイに限ったはなしでなく、周囲には似た種類の呪術的なものがあるのでしょう。

パリットは正確には『プラ・パリット』。護経とか護呪経典などと訳されます。

悪魔や難から守るためのパーリ語のまじないのお経を読むのです。


ここで上座部地域の呪術祭祀を考える上で触れておきたいのは土着の精霊信仰。タイの事例ですが「ピー」というものがあります。。

これは仏教以前からあるアニミズム的信仰で、「ピー」と呼ばれる精霊・悪霊の信仰があり、ピーの働きを恐れる文化がある。

その上で、ピーを祓ったりという呪術が発展してきた。

『プラ・パリット』も厄除けという側面がある一方、ピー避け、ピー祓いといった側面で定着しています。



この悪魔祓いの僧侶は、在野では根強く受容があって、実際に僧侶による悪魔祓いの儀式は普通にあるようである。呪い師としての僧侶という側面が上座部国家でもあるというのは踏まえておきたい。

それの行き過ぎた例として、僧侶の死体を掘り起こしてお守りを作るだの、赤ん坊の死体でお守り作るだの、狂った呪術僧が定期的に現れて逮捕されるわけです。決して迷信が彼らに無いわけではなく、むしろ根付いているという側面もある。

モー・ピー(呪医)、コン・ソン(依代)などといった言葉もあるそうです。そしてそれらの儀式を担うのはやはり僧侶なのです。

精霊信仰根強いタイの民間信仰と密接に関連して、上座部の呪術はあるわけです。



次に護符文化があるでしょう。ピー避けなどで護符が非常に重要視されています。

『プラ・モンコン』と言われるそうです。


タイの護符文化については石高真吾氏がいろいろと論文を発表されているようです。

http://www.glocol.osaka-u.ac.jp/staff/ishitaka/index.html

1998 「タイ国での護符信仰の意味 −その消費社会での効用−」『年報人間科学』第19号 大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室 233-247頁。

1997 「タイ国における護符信仰」『南方文化』第24輯 天理南方文化研究会 163-177頁。

1995 「タイ社会における護符(ワットゥ・モンコン)の意味」 未公刊 修士論文 大阪大学大学院人間科学研究科。

うーむ。博物学の虫が騒いできたので、国立民族学博物館の図書館にまた調べ物に行かねばならないかもしれない。

同様なご加護のある霊験グッズとして、それ用の小仏像がある。

これは『プラ・クルアン』というそうである。護仏とでも和訳したらいいのかな。

タクルット、クマーントーン、ナーンクワックなどなんやかんやあるらしいですが、タイ語分かりません。

クルアン・ラーンというものもあって、これは仏像でないとか。


こちらにクルアーン・ラーンについて実地の様子があった。

なんでも高僧が掘ったものでは300万円もするものがあったり、お守り専門の本が出たりで投機対象になるほどだとか。

http://tratra.exblog.jp/9262769/


こちらによれば、お守り全般のことを『クルアン・ラーン』といい

その中でも特にヒンドゥー神や仏、高僧などありがたいもんをかたどったものを『プラ・クルアン』(=聖なるお守り)というそうである。

http://www.1046.in/bu_6amulet.html


こちらはタイのお守り専門店

http://www.haruethai.com/

こんなマニアックなショップあるのか!いろいろ現物の写真が載っていておもしろい。


聖糸儀式も上座部仏教で定番である。聖糸は『サイ・シーン』といい、仏像から糸を長く伸ばし、寺の堂内を張り巡らし、また僧侶の手を繋ぎ、さらには信者にも繋がる。時には堂外にまで。

前のスリランカの仏歯寺のNHKの番組でもやってましたね。糸でご本尊と触れ合ってという儀式です。

この状態で、僧侶達はひたすらパリットを唱えます。

これにより悪魔を排除する呪力が発生し、糸を張り巡らした場は呪力が満ち、悪霊の進入を防ぐ。

糸張ってお経唱えているシーンはよく見ますが、あれは上座部仏教に伝わる悪魔祓いの呪法なのです。


その他、『ナム・モーン』と呼ばれる聖水儀式も寺で行われている。

タイの旧正月(4月)などに寺院ではナム・モーンが行われ、僧侶が参拝してきた人々に、護呪を唱えながら聖水を振りまく。人々は我を争って聖水を浴びる。

この水に当たれば力が体内に満ち、災厄から守られると信じられているそうだ。





またタイ仏教はヒンドゥーと習合している部分が多く、ヒンドゥー神を仏教の守護神として多く取り込んでいるが

ヒンドゥー由来の呪法も多くあるようである。

『チューム』は白い粉で信者の体に護呪の絵を描くというヒンドゥー由来のお呪いですが、タイでは僧侶の仕事。

信者は僧にチュームをしてもらいに集うそうである。


上記サイトに出ていた護符刺青『サック・ヤント』(サック=刺青、ヤント=護符)もバラモン教由来だそうである。このヤント、本来タイ少数民族に伝わっていた伝統の呪法であったらしいが、シャム王国でアユタヤ時代以後取り入れられ、仏教僧の間に秘伝として伝わっているそうな。

(元がバラモン教なので、仏教僧以外にも秘伝を伝える人々はいるらしい)

修行してこのヤントの秘法を修得した僧侶によって念を唱えながら一文字一文字、腕や背中、全身などに掘り込まれるそうな。



というわけで、

その他いろいろタイの人々はお呪いが大好きで、非常に根深いようです。

我々は上座部仏教僧というと戒律を守って超然と生きる聖者というイメージしかありませんが、

実際には占い師であり、呪術で病を治す呪医であり、ときにはエクソシストでもあるのです。


今回の記事にあたり、各種Webサイトと共に、先日古本屋で買った『トワイライトゾーン』No.145の杉江幸彦氏の取材記事『タイ仏教の悪魔祓い儀式』が参考になりました。

え?トワイライトゾーン!?と言うなかれ、杉江氏はガチな上座部仏教・民族学研究者のようで民族学の著書や『大法輪』での記事などもあるようで、この記事は写真豊富でおもしろかったです。

タイ仏教や信仰の幅広さを垣間見たように思います。

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