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2009年1月30日 (金)

真宗とはなんなのか

私は明恵に共感を覚える派で、浄土真宗否定派です。少なくとも「でした」。

法然はまだしも、悪人正機では法然が悲観した本覚に逆戻りではないか!と。


そもそも法然の念仏とはなんなのか?

先んじる空也や、融通念仏の良忍のような念仏はどうなのか?

空也を憧憬した時宗の一遍の念仏はどうあったのか?

そのようなことをいろいろ考え、ここ数年ちらほら本読んでます。日本で異常発展した念仏信仰とはなんなのか。


融通念仏宗は実は法然念仏とは全く思想が違う。根本経典は華厳経。

念仏が世の救いにいくばくかなるという菩薩行。自他ともに救われんという思想です。

空也も恐らく近い位置にある。


法然の念仏はそうではなく、浄土ありきというこの世はもう捨てた厭世観が根底にある。

戦乱の時代に荒廃する人心の救いとして、あの世での救いを説いたわけです。

この世への諦めがある。


華厳密教の明恵は逆にこの世を救うことに意味があると青臭い思想を貫き、法然と対立した。

私はこっち派。現代ではあの世なんて信じてない人が多いでしょうし、むしろ明恵の思想のほうが心に響きやすいのではないかとも思います。

法然の念仏と浄土の救いは、まず本覚思想全盛で堕落しまくっていた天台宗内への絶望がある。彼らは盛んに地獄を説き、民衆から巻き上げていた。それとの対立思想という位置付けも法然の浄土信仰理解には必要な視点ではなかろうか。


今でこそ明恵の青臭い理想論は正しく聞こえるが、本当の地獄がこの世にあるとき、はたして法然の言葉は救いでなかったかというと、そうではないと思う。

戦乱で町が暴徒に焼き払われ、腐乱した死体が散在し、犯された女が彷徨う…そんな中、法然の念仏で、せめてあの世で救われるという教えは彼らにきっと安らぎを与えたであろう。

これは菩薩行でしかありえないと私は思う。

なので、法然の理論はまじめに考えれば矛盾も多いと思うが、私はやはり法然は聖人だと思う。明恵派ではあるが、法然を認める。

そういう時代背景であったのだ。


念仏は、そういう意味で、それで少しばかり気が楽になる人がいるのであれば、否定しない。菩薩行の1つではありうると思う。融通念仏的な視点で見れば念仏は世界への少しばかりの癒しであるわけです。


ただ、問題は弟子の親鸞が起こした浄土真宗の教えである。

法然の教えというものは、地獄のような時代背景あっての救済の教えです。教学的には明恵にいろいろ指摘されるように矛盾だらけと言ってよいと思う。

それを生真面目に受け取り、論理展開したものが真宗であった。

インドの各派の思想や付けたしの集大成であろう法華経を生真面目に受け取って真理として論理展開した日蓮にも通ずるところがあると思う。


法然の念仏だけ唱えればあの世で救われるという思想を生真面目に受け取れば、何やったって念仏さえ唱えたらOK!この世はどーでもいーや!となってしまう。

そんなように悪人正機説は取られる場合が多かったように思う。当然この教学では横暴を働く者も沢山出てくる。

こんなの念仏というマジナイが流行ってるだけの迷信じゃん!ってのが当然批判としてある。


一方、法然の孫弟子にあたるものの、実質的には法然以前の念仏者空也の弟子とも言うべき空也イズムの体現者、時宗一遍は、どうやら法然の考えを踏まえつつも、空也など前時代的念仏論と習合させた理論であったようだ。

彼は念仏だけで成仏できる人は優れた人であって、愚者は捨てきらねば成仏できんと述べたことが伝わっておりますし(そして自分自身は愚者であると)、明確に法然や親鸞系とは違う部分がある。

ただし、一遍は捨て聖。書を残さない主義であったこともあり、弟子の教学は流行の真宗の影響を受け、単純に念仏で救われるというだけに向かっていったように思われる。


そんなわけで、親鸞の浄土真宗や、悪人正機という考え方、私は断固反対でした。真宗なんてなんで信じるの?と。明恵派であるように、華厳的世界観を重視するので、現世がどうあるべきかに私は仏教の真髄はあると思うので、それをどーでもいいというような思想は許せません。

ですが、いろいろ考えたのですが、親鸞の言いたいことは本覚のような意味ではないのでは?と最近思えてきた。

仏教では小さく生きることをヨシとします。これは縁起の集合であるこの世に要らぬ業を起こさぬためです。

これを極限まで突き詰めると、「なすがまま」という境地に至るのでは?と。柳のように風がふけばそっちに揺らぎ逆にふけば逆に行き、そのような境地が親鸞の言いたいことなのではないかと思えました。

悪人正機とは、悪人こそが救われると説きます。その理由として、正しい人は阿弥陀仏に救いを求めきれず自らなんとかしようとしてしまう、ところが悪人は自分でどうこうしようとせず阿弥陀仏に全面的に一方的に頼る。

浄土への救済は阿弥陀仏の本願であり、絶対他力にすがる気持ちが強いほうがいいので、悪人のほうが救われると。

ここで説かれているのは、悪人のほうが尊いとか、何してもいいということではなく、「絶対他力」ということの重要性です。

完全に相手に委ねきれるか?という境地を説いてるのです。


この理論を理解して、華厳派の私は、はっと気づかされたわけです。

風が吹けばゆらぐ柳のように、風が吹くほうに飛ばされる埃のように、この世の縁起の法則に、あるがままに委ねきるという境地、それは華厳的解釈ができるのではないか?と。

強き人はこの世を救わんと、よりよくせんと菩薩道を行けるでしょう、しかしそういう力を持たないちっぽけな衆愚はどうあるべきか?それの理論を親鸞はよく理解してるのではないでしょうか。

悪いことをしてもいい、何やってもいいでなく、絶対他力すなわち柳のような不要な因果を起こさぬ委ねた生き方というのであれば、これは確かに仏教だ。

親鸞がそう説いたかどうかは真宗教学に不勉強な私には分かりませんが、真宗を華厳的解釈で構築し直すことはできると感じました。(念仏を華厳的解釈で構築しなおした融通念仏宗のように)

弱者のあるべきようとして、この柳の論理、すなわち絶対他力という生き様はひとつの到達点ではないでしょうか。

そう考えると、真宗もまたあなどれないなと思いました。

念仏唱えたら天国に行ける!式の思想はくだらないと思うし、どーでもいいのですが、その「絶対他力」という生き方、突き詰めると縁起の世界観にまで行き着きうる思想と感じました。

(各宗派の教学に不勉強なので、私の現段階の浅い理解で、って話しですが。全く興味無かった真宗ですが、ちょっといろいろ知りたくなってきました。「華厳真宗」みたいな論理が構築できうるように思ったりして)

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