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2009年2月 2日 (月)

Ajitaさんは権威主義者すぎる

もう反論無いのかと思ってたら、なんか書いてはったんですね。気付いてなかったです。

というわけで彼のご意見に再び反論。


『大般涅槃経』に記された「正法」の見分け方

http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081225/p1


>釈尊は社会情勢を鑑みて女性の出家に難色を示したものの、女性が出家しても悟れれないということがあるのかというアーナンダ尊者の問いに、

>「そのようなことはない。女であっても悟れる」と明確に答えている。それ以外の答えは初期経典のどこにもない。異論の成り立たない唯一の回答である。

>「在家だったり女性だったり、悪人だったり、そんな者すらも悟れる」*1云々は

>そもそも大乗仏教と関係の無い、初期仏教時代からの一貫した特徴(悪人という言葉は曲者だが常識的に過去罪を犯した人間と理解する)であることははっきりしている。


またおかしな曲解をする。

初期経典にはブッダの平等思想が強く描かれる部分があります。女性も悟りえるし、出家ですらない在家ですら悟るわけです。悟るかどうかはそのものがどうあるかのみが問題であって、出自や立場などの条件は無関係というのがブッダの思想でありましょう。


ところが、初期経典にもありますように、女性出家について論争があったらしきことが記されています。時代は諸説あれど、少なくとも女性の出家が認められたのは議論があってのちに許可されたという経緯が分かります。



そして悟りの問題ですが、時代を経ると悟りは出家して瞑想行を極めた者にしかありえないものへと変容していきます。

在家が悟るだの、子供が悟るだのそんなことはありえないことという教学になってしまうのです。在家で悟った者なんてのは存在しなくなります。

つまり仏典の古層と離れ、仏教団が国教となり、権威化していったということでしょう。

それに対する原理主義こそが下々の市民の在家教徒に近い思想を持つ大衆部であり、その考えの一部が発展した大乗です。

元から大乗のような思想はあるから大乗とは関係無いというのは間違いです。その元からある思想を軽視していった結果、大乗が生まれたのです。


>上記エントリの「■大乗仏教が組み込んだ差別思考」の節ですでに論じた。

>大乗経典をつくった人々は重々承知していた問題を、raganagaさんは知らないらしい。

>成仏を目指す菩薩道で「女性が」修行を完成することは論理的に成り立たない。何劫にもわたって、男根のある肉体にしか生まれ変わらないように波羅蜜を積むのだと、

>大品般若経の注釈書の形で大乗仏教思想を集大成した『大智度論』に明記してある。


『大智度論』とは般若経を、部派仏教の教学を学んできた龍樹が、その論法で解釈し、部派にも対抗しうる論理として構築した注釈書です。vs部派で、大乗は正しい!と論戦挑んでる書と言ってよいでしょう。

女性の地位が低い話しは、別に大乗だけのはなしではないですよ。あなたが盲信する上座部も同じです。

単純にそれは当事のインドの女性が悟るには男性より苦難が多いという常識を踏まえただけでしょう。

あなたがたの宗教でも戒が女性のほうが圧倒的に多いでしょう?

あなたは大乗を非難するにしても毎度根拠が無茶苦茶バイアスかかりすぎですよ。

別に大乗が女性蔑視の宗教だ!ってはなしではそれはないでしょう。

単なるインドの価値観です。


法華経などに顕著ですが、そういうインド伝来の価値観を否定する経典を大乗はむしろたくさん生み出します。

私の考えでは、大乗と結果的に1つに集約されますが、この世の形而上学的理論を説く般若経と、この世の完全なる平等性と究極の慈悲を説く法華経は別の思想集団の元で生まれたものであり、両者が互いにシンクロして大乗という考え方、教団ができていくのです。『大智度論』は般若経の注釈書でしかなく、法華経を生んだ地域の平等思想、絶対一乗思想は弱く、従来のインドの価値観に龍樹がまだあるということなのではないでしょうか。

玄奘によれば、当時は小乗大乗は兼学道場が普通にあり、いろいろな経典をみな好きに学ぶような状況であったそうです。

つまり、上座部出身の龍樹は般若経の縁起の世界観を至高とする思想に傾倒し、極めたわけです。

しかし大乗というものは、般若経にあるような縁起の世界観と、それゆえにある他者への慈悲&そして平等という法華経にあるような実践が合体して教団として成り立っていきます。

それ以前の般若経注釈書だけとりあげて、「大乗は女性差別をする仏教だ!」つーのは適当ではない。

それ言うなら、当時のインド思想自体がそうで、あなたがた上座部もまた、戒や論を見ればそうです。


そして般若経と平等慈悲の一乗思想の法華経などが一つの論理体系にまとまっていき、華厳やその発展の密教の理趣経という、この世全ての一体感という究極の思想が大成されます。

ここに般若経の説く縁起世界観による形而上学的な思想と、法華経などの説く徹底的な一乗平等思想が、自他の消滅によりすなわちイコールということになるのです。

インドのカーストなどにも見られるような人の価値を上下細かく分けたがる文化を大乗はこうして完全に超越するわけです。日本仏教にいたっては、自然や動物、無生物までもが仏たりうるとまでいきます。女性差別なんてものは一切無い。




>釈尊と阿羅漢たちとの差別化が合理性を逸するレベルまで進み、かつ修行の目標である阿羅漢の地位低下が起こらない限り、

>多仏論というトピックが議論される土台が成り立たない。

>まして、以下の文章に描かれる「方便としての多仏」など、もっともっと後世に発達したレトリックであろう。


いいえ。あなたの大好きなパーリを読めば、ブッダ自身が真に悟りに目覚めたのが自分だけでは無いと、己を神格化する弟子をいさめておりますよね?

弟子が「真に悟りを開いたのは過去にも未来にもあなたさまだけです!」というのを諌め「なぜそんなことが言えるの?お前は過去も未来も見てきたの?あ?」と厳しくいうてますよね。

そもそも悟りを開く人は過去にもそりゃいたろうし、未来にもそりゃでてくるかもしれない、という相対化は本来からある思想でしかありません。

弟子のあいだで死後神格化してブッダの境地にはゴータマしかなりえないし、他には絶対居ないなんてのこそが後世の歪みなのです。

多仏説自体はその歪みに対する本質回帰にすぎません。



>これには驚いた。では訊くが、例えば『大智度論』の作者はその「みんな」に入っていないのであろうか。同書には観音菩薩ら大乗経典の菩薩の来歴について詳細に解説されている。

>大乗八宗の祖と尊敬される龍樹菩薩(では無いかもしれないが)たるものが、

>まじめな大乗経信者である読者を騙すために菩薩の設定資料を書くものだろうか。私は大乗仏教の学侶たちがそこまで悪人だったとは思えないのだが……。


え?どこに?

菩薩とは大乗用語では、ほんとは涅槃に入れるような高みにまで上り詰めたが、民を救うために現世にある人を言います。

日本では行基が行基菩薩と呼ばれておりましたが、そのように大乗では高僧などを菩薩とすることもあります。大乗の阿羅漢のような意味の場合もあります。もしかしてそういうの言ってる?

中には実在の高僧がモデルの菩薩も居ると考えられておりますから、来歴が具体的な人間臭いものもあります。

弥勒菩薩なども過去に実在した高僧を死後慕って神格化したものとも言われますが、そういうのをピックアップしても。

それを言ってるだけじゃーないですか。『大智度論』読んだのならなんでそういう発言になるのか理解に苦しみます。読解力無いのでしょうか?

般若経に出てくる菩薩や如来が智慧の象徴で方便なのは、『大智度論』見ても龍樹は理解してると思います。


観音菩薩の来歴に実在の人物として書いてるなんてあるかい?そんなの無いと思いますが…

大智度論と同じ頃に成立したとされる般若心経では舎利子(舎利弗)を主人公に、観自在菩薩が真の智慧の道を説き、成長します。こういうのを方便と分からないのはちょっとどうかと思います。

要するに未熟者が観自在という法に導かれ、悟りを得るということです。

観自在が実在の誰それだなんて誰も思ってないし、実際の人間として舎利弗と出合ったとも、誰も考えておりません。(舎利弗が観自在という「法」の真理に触れて、ゆえに悟ったのだという思想はあったにしても)


変な曲解を広めないで欲しいもんです。大乗経典の菩薩や如来は方便でしかないし、法の化身です。そんなことはみな理解してきたはなしです。

あなたのおかしなバイアスで歪めた読み方を根拠に大乗批判されても困惑するばかりです。



>釈尊が、自分が生まれようがいまいが法は法である、と述べたことと、その法を見出した正等覚者の教えを特別視すべきではない(その辺の凡夫の言葉と平等視せよ?)という理屈とがどうつながるのだろうか。

>ブッダの出現に関わりなく法は法だとしても、それを見出して衆生に説示しなければ、無明の闇に沈む凡夫がどうやってそれを知り得るのか。

>ご親切にも瞑想すると異世界から闖入してくださる「法則の化身」など、架空のキャラクターに過ぎないのだから、正等覚者の残された教法がなければ修行道も悟りもないではないか。


>我々が仏教を学ぶのであれば、より信頼度の高い教えの伝統に就きたいと思うのは、当たり前のことだ。それは「権威主義」でも「舶来信仰」でもない。

>オウムだの何だのネガティブなレッテル張りで俗情を煽ろうとする態度、無自覚な文化ナショナリズムの垂れ流しに気づかない迂闊さをこそ恥じるべきではないか。


信頼度が高いという根拠が無い。そういうのを権威主義というのです。

「自ら考える」これが最上位にあって、その下の過去の高僧らの説や考えを参考にする、それが仏教徒のあるべき姿だというのに、

最上位に他人の考えを置いてしまっている。ブッダが戒めたのはそういうことでしょう。

ブッダの教えすらも「自ら観察し、思索し、練る」の下位にあるべきもので、他人を己の思索より最上位に置いてしまう。嘆かわしいことです。

人を師とするなというブッダの遺言を噛締めるべきです。

あなたは仏教を歪めている。その歪みを仏教かのように垂れ流す害悪。恥じなさい。

どこが「ひじる日々」ですか。あなたは真摯に学ばんとする仏教徒を幼稚な盲信で迷わせているだけです。

そんなグルイズム、仏教ではない。

テーラワーダの一教団の広告塔であらんとするならば、その影響を考えるべきです。


>この前節では、「完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は存在しない」(中村元訳)とも述べている。

>釈尊が繰り返し繰り返し弟子たちに指導したのは四念処の観察であった。一連の流れで釈尊の説法を読めば、自燈明・法燈明の実践として四念処を示す記述を簡単に「後世の付加」として捨てることはできないだろう。

>ragarajaさんの「断章取義」的な理解が妥当なものかどうかは、上の経説と照らし合わせて、読者がそれぞれ判断していただきたいと思う


その前にあげてくださった「自灯明・法灯明」の引用ですが、結局「よく観察せよ」ということを述べてるまででしょう。

ここに述べられるような理論をヨーガチックに高めていったのが四念処行法といったものでしょう。


四念処は本来はここに述べられているように、この世の法を正しく体感し、考え、そのようなこの世の法をよく解することが修行の道だというはなしであったと考えられます。

要は「この世を己を、よく知れ」という教えに他なりません。

瞑想論としてこれら思想を元に後世に教団内でそれぞれ流派ごとにいろいろな瞑想法が出てくる。

法を体感するために思索にふける、それが教えであり、その思索の方法論としてインドに連綿と続く行者の思想などと影響しあいながら瞑想法が発展していくわけです。

現代でもいろいろな流派が生まれたり、発展しつづけていますが、そういうものです。



>幸いなことに『大般涅槃経』には、釈尊が、釈尊の名を用いてかたられる教えの真偽の見抜き方についても、明確なポイントが説かれている、四大教法と呼ばれる法門であるが、以下にさわりを引用しよう。

(略)

>何も付け加えるべきものはないだろう。パーリ経典は、妄信や思い込みとは無縁なクールな態度で編纂された。

>大乗経典とは端的に言えば、「確かにこれは、かの世尊の言葉ではなく、この比丘が誤って理解したものである」>と、釈尊の定めた基準によって、サンガから捨てられた欠陥品なのである。


何度も言いますが、パーリは各派に分裂の後、アショーカ王時代の国教としての経典結集にまとめられた経典が元になって、それの派生として上座部スリランカ部派の経典としてずっとさらに後代に成立したものです。この時代背景が前提の記述が異常に多いですからね。

この偽の教えを戒める記述は明らかに、仏教団の主導権握った部派で経典がまとまってからの記述です。

逆に言えば、対立する派閥や教えがあるということを示してるにすぎません。

パーリが対立するであろう人々への攻撃が多く、随分後世の弟子によりバイアスかかってるということは言うまでもありませんが、そういう記述がたくさん挿入された時点に入ったものであろうと推測されます。

玄奘の時代にまでデーヴァダッタ教団が存在したという驚きの事実まであるのですからね。

まずそもそものパーリはそんなに由緒正しいものではないという前提を受け入れてください。マハーカッサ派経典というだけです。

むしろこれは「仏教はブッダ死後1つでは決してなかった」という歴史を記している文献とすべきでしょう。



>釈尊の説かれた、聖なる八正道という実践法を備えた法と律こそが、

>悟りという結果に修行者を導くただ一つの道であると、『大般涅槃経』には品格よく記されている。


いやだから、それこの世の法を極めなさいといってるだけです。大乗でもその通りですし、

行法について現在のテーラワーダのようにマニュアル化していくのは後代のことというのが考古学的立場です。

信仰は勝手ですが、それを学問的に正しいかのように吹聴はどうかしている。それでは似非科学のようなものです。


>ひるがえって、ragarajaさんが奉じる、教条主義を脱した大乗仏教の「この世の法に従った正しい生き方」とは具体的にいかなる代物だったのか?

>大乗仏教にも長い歴史があるが、比較的私たちの記憶に新しい、また決して大乗仏教の一部ではなく、日本の大乗仏教のほぼすべてが関係した具体的な事例を取り上げよう。


話にならないな。

上座部仏教国の歴史を見なさい。タイやメコンの国々がどれだけ血を血で洗う戦いを中世から連綿と続けてきたのか。

仏像巡って殺し合いまでやっています。

施政者と権威化した教団がアホやらかすのはどこの国でもあることです。

大乗とか上座部とかそういう話しではないし、大乗の教義がどうだの上座部の教義がどうだのとほとんど関係無い話しです。

キリスト教が慈愛を説いても十字軍は横暴を働きます。それは別にキリスト教の教義の欠陥ではないでしょう。

こんなの挙げて「だから大乗は劣っているのだ!」ってなにそれ…

上座部諸国の歴史をもっと学んだらどうでしょう?幼稚すぎて話しにならないです。


>そのような破滅に至る愚者の行進に連なることを、釈尊の言葉を守って拒む人々を「権威主義者」と呼ぶのであれば、私は喜んで権威主義者と呼ばれたいと思う。

>釈尊の教えを見下し、大乗を誇る者たちが、ほしいままに繰り出す無責任な詭弁を相手にしていたら、犯せない罪などついには無くなるのである。


「法を師とせよ、人を師とするな」という仏教の根幹たる相対主義思想を無視してしまう、あなたこそが「釈尊の教えを見下し」なのです。

本当に釈尊を憧憬するのならば、眼を塞ぎ耳を塞ぎ、いろいろな教えに目を向けないなんて思想にはなり得ないはず。思考停止してどうするのです。

あなたが権威に思っていて、「見下された!」と感じてしまっていることはブッダの教えでもなんでもない、後世の高僧らで練られてきバイアス入りまくりの経典でしかないものです。

当然過去連綿と練られた考えであり、学ぶ価値がある。しかしそれに盲信してしまうようでは「人を師」としていることになる。仏教ってそういう宗教じゃないでしょう。

あなたが釈尊の正統な弟子と言うように、私の宗派は「釈迦宗」です、と申しておきます。

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