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2009年2月 3日 (火)

方便を巡る民間信仰と教学分野の認識の違いを区別する必要性

返信ありましたので、ホイ、Ajitaさんへ反論。

初期大乗仏教を支えた「他方仏土」の実在感

http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090203/p1


>というわけで、菩薩の出身地を解説する文脈で、観世音菩薩以下の菩薩が紹介されていることは明らかだ。

>「他方」はそれだけで「他方の仏国」を指す用例もある。「他方」を象徴的に理解するのは、経典の合理主義的な再解釈としてはあり得ても、もともとの経典の文脈からは成り立たない。

>「観世音菩薩が法の化身という方便でしかない」というid:ragarajaさんの見解は残念ながら否定されなければならない。


その引用部分読んでなんでそういう解釈になるんだろう?

過去の実在の菩薩と崇められた高僧らの伝承と、「観世音菩薩等は、他方の仏土より、来た菩薩です。」という

法の化身としての菩薩を龍樹は明確に区別できていることが理解できないというのは、どういう読解なのか。


行基菩薩や徳一菩薩と、観自在菩薩とかなんとかを同列に認識はせんでしょう。

明らかに観自在は経典見ても普通の人間じゃあありません。法の真理を伝え導く超越的な法の代弁者です。

それを龍樹はこの注釈書、『大智度論』において明確に区別付いてるというに、何を言ってるのだろうかこのかたは。


また、意図的なんでしょうが、在家で菩薩行を行った人々と出家で行った人々などを分類して現世の菩薩のありようを語っている部分と、そんな菩薩行の存在は世界にあまねく存在するという「この諸の菩薩は、十方の仏土に於いて、皆、仏の位を紹ぎます。」という*別文脈*の文章を一体として引用して印象操作しておりますが、

観世音を別の仏土の者、すなわちこの世にあらざる者として、菩薩行の聖人と区別付いてることは明確でしょう。


もちろん現代のように100年も200年も昔の歴史が正確に学べる時代ではありませんから、そういった菩薩らの伝承を

龍樹は教相判釈のように、これらは過去の聖人、これらは法の化身とやっているのであって、般若経を書き、その後発展させた人々とはイコールではないのであくまで彼の読解によるものでありますが、

これら菩薩を全て実際のことなどとは龍樹は考えておりません。


この時代の人々の経典理解を知るには、『大智度論』と同じ頃に成立したと言われる『般若心経』が参考になるでしょう。

これもまた『般若経』のエッセンスを短くまとめた、いわば注釈書と言えるものです。

この中では法の化身たる観自在が舎利弗を導き、般若経の世界観を知り、真の智恵を得るということが説かれます。

当然『般若心経』が書かれた時代の人々は、これが『般若経』のエッセンスをまとめたものであることは理解しているでしょう。当然観自在が法の化身であることも理解しているわけです。

当然『般若経』は広く知られているわけですから、これはウソの話しをでっちあげた!というのではなく、劇形式で論説書いてるというだけの話しなのは当然の了解なのです。


騙そうとウソ話しでっちあげるなら、ブッダ自身が舎利弗に般若経の教えを説けばいいのであって、そうなっていないことが最大の証左ですよ。

人ならざる仏土の存在たる観自在の声を聞き、舎利弗が智慧を完成させる。

法を師とせよという遺言に通ずる思想がそこにはあります。


というわけで、龍樹がこのような法の化身としての方便を理解してないとは到底思えません。

事実『大智度論』でも明確に、行基菩薩的な実際の菩薩行を行う過去の聖人らと、観自在などの慈悲思想という法の化身の菩薩は切り分けている。

龍樹が法の化身、法の代弁者としての人ならざる存在としての菩薩を理解していたのは明らかです。


つまり、結論としては、大乗経典が実際にあった話しで、だから正しいのだ!という思想ではそもそもないし、龍樹も無い。法の化身という存在の概念は明らかにある。

もちろん彼には何百年前のことをどうとは言い切れないだろうが、それを見抜く眼を彼は持っていたし、そういう「法の人格化」的な前提はあるものと読み解いている。

『大智度論』で書かれているのはそういうこっちゃなくて、『般若経』に出てくる数々の菩薩について意味合いを考えるということです。


『桃太郎』の昔話をネタに、サル・トリ・イヌはそれぞれがどういう役割や意味合いがあるのか?と論述してるようなもんです。『浦島太郎』をネタにそれぞれの教えを読解するというようなもんです。

そういう本に「桃太郎なんてほんとは居ないし、鬼退治したなんて創作だ!」と叫ばれても困るわけです。

『般若経』という大乗思想を説いた経典がまずあり、その要素を整理論述した書物なのです。菩薩の分類論を語ってるのはまさにそういう話し。

「般若経なんてウソなのに、龍樹はほんとのことと思ってる!ばーか!」ってのはピント外れもいいとこなんです。

そういうこっちゃなく、既に現実としてある経典、その内容を詳細に解説しているだけのはなしなんです。


>『大智度論』著者は、「他方の仏土」から飛来する超人的な能力を持つ菩薩が実在すると信じていた、と仮定しても、それはちっともおかしなことではない。


そうですよ。信じてます。この世の摩訶不思議たる「法」そのものなんだから。

そういう世の深遠なる「法」を明確に認識し、知ろうとしております。

ただ、それはヨガで神通力得た超人というような俗っぽいものではなく、この世に存在する「法」の声を聞くという意味合いです。

修行してたら観自在がやってきていろいろ教えて導いてくれる…という教学なら方便ではないと言えるでしょうが、龍樹とそう代わらぬ時代の大乗の教えでもそんな祈祷宗教的にはなっていない。法顕や玄奘が観自在を呼び寄せようとしてたと言うならあなたの認識は説得力を持つでしょうが、そんな認識には全くなってない。

常に修行により経典で観自在が説くような法が理解できるようになれるかというベクトルです。

後期密教などずっと後代の呪術となった時代のものはまた別でしょうけど。


>人並はずれた菩薩の超能力もまた、何劫にもわたる厳しい波羅蜜修行の賜物である。

>救済者であり信仰の対象であるところの諸菩薩は、固い誓願をもって途方もない輪廻を波羅蜜修行に捧げ、

>それによって超人的な能力を手に入れた大乗菩薩道の修行者・実践者なのである。

>それはアジアの大乗仏教文化圏において、長年にわたって共有されてきた常識である。


はいウソ。むしろそれは僧を神格化し拝む、上座部の瞑想文化にこそあるベクトルでしょう。そんな大乗の諸仏は人間臭い俗な存在ではない。(もちろん実在の過去の菩薩道を貫いた名僧の説話もあるでしょうからその限りではないでしょうけど)

前記事でも挙げましたが、般若経の発展たる理趣経などを見れば、法を代弁する菩薩や如来が次々出てきて、それぞれ教えの部分部分をかかげます。そして最終的にはそれらが実は一つというような世界観が描かれます。ここでは実際の過去の聖人など一切出てこず、完全に方便となってます。

大乗における経典内に出てくる如来や菩薩はこのように、経典の諸仏は法の化身という文化がずっとあります。

そういう認識の文化があるからこそ、理趣経のような経典は生まれうるわけです。(理趣経は元は般若理趣分であり、極論すれば般若経の論説のようなものです)



>「他方の仏土」とは、釈迦牟尼世尊が誕生したこの「仏土」の外にある、他のブッダが出現している他の世界のことだ。

>それはただの想像の産物でも「寓話」でのなく、苦行を伴う激しい瞑想修行(『般舟三昧経』などに説かれる)で感得された、実在感を備えた信仰対象であった。

(中略)

>際にブッダと出会えた人々は極少数だったとしても、「他方の仏土」の存在は経典の流布という形で広まっていった。

>その結果、「阿含・ニカーヤの外」に新しい仏教が誕生したのである。

>伝統仏教の立場から見れば、それは実在した「正等覚者の教え」からの愚かしい逸脱に他ならなかったにせよ。


他方仏思想と大乗成立は直接関係は無いでしょう。

他方仏土の思想は、多仏思想との関連性で語られるべきものです。

先の記事でも触れましたが、これは過去仏、未来仏というブッダ自身が述べた「真の悟りを得るのが俺だけなんてなんでお前わかんの?」というブッダ相対化の帰結としてあるもので、過去仏未来仏に続くかたちで、今我々が居る場所にだけ仏が居るなんてなぜ分かる?ブッダは死んだが、今も居るのではないかという信仰を生みます。これが他方仏の信仰のベースであり、必死な修行どうこうではなくブッダへの憧憬をベースに民衆信仰、民俗としてあると言うべき。


さらにそれを補完する形で教学の分野で、過去仏未来仏だけでなく、他方仏というものに肉付けがされていくのです。

これらは大乗成立以前に過去七仏などが考えられ、上座部にも受け継がれていますが、まあ迷信です。

要はブッダ相対化ということが教えであって、過去仏・未来仏思想があるから修行論など教学のキモが変質するかと言えば否です。大乗でも同様で、他方仏があるから他方仏に祈祷するなんてのはメインストリームにはなりえなかった。

もちろん「民俗」としてはそういう信仰はあります。弥勒信仰なんかは上座部にもありますが、民俗はそりゃいろいろあります。

大乗教学としての他仏土というものは、この世ならざる世界の説明として発展します。仏の真理が隅々まで渡りきった完璧なる世界を言うようになります。またその境地という考え方もあります。


決して異国に菩薩の国があってそこからやってくるというような俗な意味ではありません。

修行の結果真に目覚めたとき、我と仏が区別無くなり、その地に至るという思想が至るところで説かれますから。

(もちろん民の民俗信仰としては海の向こうに極楽があるだのといった思想はありますよ)

民間信仰と大乗教学のメインストリームを強引に混ぜてるように思います。

この論法で上座部批判しだしたら同じようになんぼでも迷信だ!と非難できてしまいますよ。


曼荼羅が生まれる背景には方便としての諸仏や、方便としての他仏土があるわけですよ。

そういう思想無しには般若経から理趣経などという形式で描かれた経典は生まれ得ない。こういうものが生まれる背景には法の化身、代弁者として、つまり方便としての諸仏が基層として無ければならないのです。


Ajitaさんの見解は、民俗信仰としてのブッダ憧憬、極楽憧憬としての多仏、多仏土にのみ注視し、

ブッダ神格化に対するフラット化としての多仏思想や、悟りのステージ・方向性論としての多仏土という教学的な部分を軽視しすぎだと思います。

民俗信仰としてはそりゃ海の向こうに救いの国があるなんてのはそりゃあるでしょう。ブッダは居ないけど他所の国にはきっと居ると憧憬もあるでしょう。

けど、大乗教学はあくまで多仏は誰もが悟りうるというブッダは一人に限らないという一乗思想に関連して説かれていくし、多方仏も、修行の目指す境地の説明として細かく発展します。これもまた方便ですよ。

もし本当に現実的存在として仏土がどこかに実在する、なんて思想が教学の分野で考えられていたのならば、いかに仏土へ行くか?という学問が発展しているはずです。船に乗ってどこへいけばよいだの、ヒマラヤを越えればよいだの、そんなの真面目に教学の分野で語られてはいません。

そういうものが全く無く、あくまでそれらは内的イメージとしてのものというのが、まさに方便ということなのです。

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