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2009年2月 6日 (金)

「我見ばや」の歌が理解できなくて

時宗の一遍上人は一切の著書を残しませんでした。ブッダイズムというか空也イズムというか。

なので、これは弟子らが死後まとめた彼の言葉とされるものの断片から思想を読み解く他無い。

聖人伝承的な創作とまではいかずとも尾ひれが付いた話やら、弟子の受け取り方(悪く言えばバイアス)などもあり、正確なところは分からないというのが実際のところです。が、逆に言えばいろいろ考えうる部分が多く研究しがいがあるところでもあると思います。


一遍資料の中でも特に重視されるのが、『一遍聖絵』と言われる絵巻物。

没後10年に完成したとされ、実弟と言われる聖戒によって作成されたと伝えられています。

これを見ると一遍の生涯の行程がことこまかに描かれており、一遍がどこをどういう順序で歩き、どこで説法したのかなどなどが分かります。

絵巻ですから論理はなかなか分かりづらいのですが、それでもいろいろなことが読み解けます。


ざっとこの聖絵に描かれた行程を順番に解説してくれる本としてとりあえず読んだのは、岩田書院の『一遍聖人と聖絵』(ISBN:9784872942118)です。

安い本なので気まぐれに買っただけですが、初心者用には必要なところを通して押さえてあり、アリであった。


理論を知る手段として、もうひとつ重要な点があり、それが和歌。

一遍は旅しながらあらゆるところで歌を読んでいるわけです。阿弥陀仏や念仏を素晴らしいとその境地を読み上げています。

そういったものからも彼の思いを読み取ることができます。


いろんな和歌があり、どれもこれも阿弥陀と共にある感激などを読んでいるわけですが、

中でも重要とされつつもいまいち意味が分からない難読歌があります。それが「我見ばや」の歌。


「我見ばや みばや見えばや 色は色 いろめく色は 色ぞ色めく」


この歌には重要な意味があるのだろうと、聖戒が注釈を付けているもので、これの意味を理解せねばならないのかもしれないけど、難しい歌であり、はっきりしない。


これは別に風景見て感動して述べたというものではないと考えられているのです。

播磨の国にて尼崎で土御門大納言源通基が一首を送っており、その返信に続くものとされるのです。

「ながき夜の ねぶりもすでに さめぬなり 六字のみなの いまの一声」

六字ってのは「南無阿弥陀仏」ってことですね。

さてこれに対して一遍は、

「ながき夜も 夢もあとなし むつの字の なのるばかりぞ いまの一声」と返します。


この一連の播磨の遊行にて

「わがと思ふ ひとの心に ひかれつつ をのれとおふる 草木だになし」

「思ふこと なくてすぎにし むかしさへ しのべばいまの なげきとぞなる」

そして、例の

「我見ばや みばや見えばや 色は色 いろめく色は 色ぞ色めく」

と読みます。


このあたりの思想を読み解いていかねばならないのですが、特に聖戒が重要と言った「我見ばや」が解釈いろいろできて難しいように思う。

私もこれはやはりなんらかの宗教的境地を語っているはずであろうと思います。

どんな解釈があるのだろう?と調べたが、いまいちよう分からない。

色ってのは仏教的意味での色なのかなんなのか、はてさて。


念仏思想や時宗思想をまだぜんぜん理解できてないので、これをこういうことだろう!と予想すら付かない。念仏者の意見を聞きたいところです。

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