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2009年2月 4日 (水)

慈悲は仏教理念足りえるのか

Creep or Chaos?@安愚多楽

http://d.hatena.ne.jp/anguttara/20090204/1233722475

>慈悲ということも考えだすと結構面白い。人文系のややこしい議論は知らない、

>が、一般に慈悲の感情は価値観の共有という一種の平等性を前提している、

>仏教的思考は人間存在にカオスを見出す、とすると、

>慈悲を根拠づけるのは仏教理念や境地ではなくその社会的帰結(教勢)である、とか。


慈悲を根拠付けるのは最も基本的な仏教理念である縁起と、非我(すなわち自他の等価化)だと思いますよ。


このへんの私の慈悲認識についてちょっと書いてみます。


大乗を特徴付ける最大のポイントは「慈悲」の思想であり、各種経典やジャータカに描かれる菩薩の捨身の思想の根源はどこにあるのか?

これは仏教では無い、執着である!というのが古代インドの小乗(あえて)側の批判であり、今に始まったことではないですよね。

玄奘の伝によれば小乗大乗は好きに兼学できる気風であったようで、両者はクロスオーバーしている部分が本来あるのですが、小乗的な菩薩の解釈といったものも伝わっております。

その理屈としては、聖者ではあるけれど、まだ現世に執着をまだ残している修行途上の存在、あともうちょっとで仏になれる!という存在という解釈で菩薩が認識されます。

ですが、これも統一した見解ではなく、菩薩を本当は仏になれるけどあえて現世に残って救済してる者、という解釈もあります。このあたりの矛盾は小乗的立場だけでなく、大乗内でも時代や地域、書物により変遷があります。

これらは複雑に流派や地域性とともにあり一本の筋として捕らえられるものではないでしょうが、大乗や空の理論はスリランカなどでまで流行し、一次は小乗が押されるが、のちにインド本土に小乗が逆上陸して盛り返しがあるという歴史的経緯によるものであろうと言われています。


しかし大乗の基層となったであろうジャータカの菩薩たちの捨身の説話の数々相当古くから見られるものであり、未熟者というニュアンスでは描かれていない。同じような時期に成立する法華経や般若経でも菩薩道こそが悟りの道という理論が語られますから、本来は菩薩の慈悲は現世への執着ではなく、それこそが悟りへの道とされていたのであろうと思います。

やはり小乗側の批判として、慈悲は現世への執着であるとしたのでありましょう。


ですが、慈悲感とは、ブッダの理論の最根本である、縁起の法則そのものであると思います。

例えば、不殺生戒は仏教に留まるものではなくそれ以前からあるインド思想でありますが、仏教理論としてこの戒がなぜあるのかを説けば、他への攻撃が巡って己に害を成すという、因果律の思想が根底にあるわけです。

「ムカついたから横の人を殴った」では、殴られた人がムカついて別の人を殴り、巡り巡って自分がいずれ殴られるわけです。

不楡盗戒もそういうことでしょう。盗まれたら盗まれた人が辛い、苦の縁起を起こすことはあるまいというわけです。

仏教では小さく小さく生きることを薦めます。これもまたこの世を害さぬ思想でしょう。

大きく貪れば、大きく縁起の帰結が起こる。縁起説の考えではそれは当然の考えです。

他人の着古した布を着ろ、余った飯を食え、というのもそういう不要な縁起を生まないようにという思想があります。

仏教が内面的な考え方、思考のありかただけに留まるというのは間違いで、社会に対する意図的な実践の視点があるものだと思います。


「縁起」に注目したとき、実践、すなわち慈悲にに辿り着くのは当然の帰結です。

縁起がどうなっているのか?どう因果律があるのか?そういうことを延々と瞑想し、思索するわけです。

そうすると、コレがああだからソレが起こっている、というようなことになってくる。

また己が個として存在せず、諸々の周囲の人間や全ての事象の結果として、つまり縁起集合としてあるという考え方が仏教ではそもそもからありますが(ミリンダ王の問いの車の例えなんかが有名ですが)

自他の境目の無さという前提で、悟りを目指す修行の道を考えたとき、他者の救いの道である菩薩行はすなわち己の悟りの道でもあるわけです。

もっと言えば、己の悟りだけでなく、他人やこの世全ての悟りが完成してこそ涅槃が完成するとも言えます。

このような菩薩観は『三経義疏』などでも見られますが、菩薩がこの世の人々をあまねく救済し、全てのあらゆる人が仏の境地になりえたとき、この世こそが仏国土になるのであるというような考え方が、よく見られます。


大乗がアニミズムと習合したというより、大乗の縁起重視思想とその実践としてある菩薩行は、そもそもからしてそういう要素を持っているわけです。

そしてそれは大乗が生み出したというより、ブッダがそもそも開発した、この世が縁起の複雑系としてあるという

世界観にそもそもの根があると思います。


石が落ちて座禅してる頭に落ちれば痛い。「石が落ちそうなところにある」という因により「当たって痛い」という果がある。だったら石をどけよう。これが「慈悲」なのです。

あくまで縁起説の世界観の上にある思想と言えると思います。

このような縁起は別に人に対するだけでなく、無生物や世の万物との関係性としてあるわけで、自然との関係を見、それをよりよくするという思想は、結局は自然(というか他の全て)を大事にしよう、関係性を大事にしようとなると思います。

そしてそれは限りなくアニミズムに近い発想。アニミズムもまた自然を畏敬し大事にするという、自然とよくあらんとする生活習慣から生まれ出でるものだからです。

つまり、アニミズムの民俗的発生経緯を、論理的にトレースしたものが縁起説ではなかろうかと思うのです。

アニミズムとは単なる自然を恐れ神格化するというだけのはなしではなく、各民族集団において、自然の脅威とよく付き合わんとする生活の智恵として習俗的に発展していくものなのです。


例えば古代エジプトにはアニミズム信仰が根強いですが、復活と死を周期的に繰り返す神を信仰する習俗などがありますが、これはすなわちナイル川の定期的に刻む氾濫とどう付き合っていくべきか?という生活の智恵として関係性が編み出されているわけです。

仏教のように論理的に解釈せんとするのではなく、長い年月をかけて習俗的にできあがってきたような信仰や祭祀ですが、結局のところ自然との付き合い方という智恵と不可分なものです。

こういう世の不可思議を論理的に、必ず全てには因と果があるという基礎理論で捉えたのがブッダであります。

ですので仏教とは自己の内面問題に留まるものではなく、世との関連性ありきの宗教で本来あると考えます。


そして世の全てが凡人には到底理解し得ないような縁起の複雑系により成り立っている以上、少しでも知り、よりよい生き方をせんと、世の全てをよく観察し、知り、関係性を常に考えることが必要になってくるのです。

その一環として、アニミズムと同じような自然への注視はあると思います。


ブッダが戒めた事柄が修行者の心のありようや、修行の妨げとなるものを戒めただけならともかく、実際には社会との関係性を多く教えとして説いておりますから、

やはり「菩薩」というベクトルは仏教において重要なのではないでしょうか。

もちろん己の心のありようは重要な点で、利他にだけ重点を置くのは間違いでしょうが、両者は同時に修するべき仏教の道であると考えます。


そんなわけで、私はやっぱ縁起とそれに付随する慈悲に注視する大乗こそが「いいこと言ってる!」と思うわけなんですね。

むしろこれを軽視するのはブッダの教えを矮小化してるだけなのではないかとすら思います。

パーリを読んでもブッダの言動に大乗思想を読み取ってしまうのははたして私がバイアスかかってるだけだろうか。

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