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2009年2月 4日 (水)

原始仏典とその価値。仏教者はどうあるべきか。

これは重要な部分なので触れておいたほうがいいと思うので説教臭いこと書きますが~

私の考えをまとめたいと思います。


大乗とテーラワーダ、どっちが正統とかどーでもいい。


あくまで歴史認識、考古学的な話しでおかしな話しについては、「そりゃちゃうよ」と意見しますけど、

信仰としてはあくまで「イイコト言ってるか」のみが問題であって、ブッダの真の金口かどうかなど全くもって興味が無い。

単純にAjita氏の認識が異様に偏ってるので指摘してるだけです。

なんか原始仏典だテーラワーダだみたいのに興味持つ若者が最近多いみたいですし、広告塔のかたがあの認識では誤解するかた増えそうですから。


そういうミーハーなかたがたの周辺を見てみると散見されるようですがー、由々しき問題だと思うのですが、「ブッダの金口だから」という権威主義でしかないかたがちらほら見られるように思うのです。

「ブッダが言ったかどうか」が信仰のよりどころになってる人はどうかしてるし、そうあってはならないです。

そんなものはどーでもいーのです。


正直最初の結集時からして長老となったマハーカッサパ主導の元聞き伝えたものをまとめたわけですが、教団はそれぞれの弟子らが教団を率いてそれぞれの地域にあったようですし、

テーラワーダのパーリ語経典というものは明確にマハーカッサパを神格化し、超人視する記述にまみれてしまってるわけです。(対してアーナンダはやたらと貶められている)

既にバイアス入りと捉えるのが冷静な判断であろうと思います。

「過去の仏教者の仏教論」と捉えるのが私はよいと思います。

もちろん仏教をよく理解した高弟の一派の仏教論であり非常に価値が高い文献ではありますが、異端集団の論理にもまた見るべきものがあると考えられます。明らかに南伝パーリ文献には対立する派閥の影がちらつきます。(玄奘の時代にまでデーヴァダッタ教団があったくらいですから、国家宗教となった教団と距離を置いた非主流学派は連綿とあったでしょう)


さらに言えば、ゴータマシッダルタのご意見すらも「あくまで彼の仏教論」であるべきだと思います。

彼はこの世の法則を見極めた!と仏教を開いて、説いたわけです。私は彼の思想は「いいこと言ってる」と思うので、取り入れれる部分は取り入れていこうと思って日々生きていますが、彼を神格化はしてないし、「賢い人だなあ」と憧憬するのみです。

そういうブッダ観であるべきなんじゃないですかね。

パーリ語経典見ても、彼は自身の神格化を戒め、自分は既にある法を理解したのみであると、あくまで普通の人間であることをむしろ主張しようとしているように見えます。

彼が言ったから正しい!みたいな権威的考え方は仏教的ではないと思うんですよ。


考古学としてはああだこうだはありますが、別にブッダが言ったからなんなの?という立場は必要だと思います。

後の僧がブッダの思想をより発展させて、よりイイコト言ってたら、それのほうが尊いです。

「ブッダが言ったから」が信ずる根拠になるのは非常にマズイです。(それすらも考古学見地からは疑わしい部分もある)

それって「ブッダが言ったから」という看板を付けたらなんでも受け入れてしまう、非常に騙されやすい人なわけです。


こういう考古学、文献学という学術的な話しと、信仰は切り分けて考えないといけないと思います。

「信仰的にどっちが正しいか?」という命題において考古学的なはなしは、こと仏教においては材料足り得ない。それを信仰の材料にしようというかたは間違っています。


そもそもブッダは人にそれぞれ別の教えを伝えたのであり、それら数え切れない教えの集めえた部分を元に意味を考えつづけてきたのが仏教です。一番弟子で最も多くを聞いたであろう舎利弗は一次結集には既に死んで彼が聞いた教えは失われているわけですし。インド中を従者もほとんど付けず孤独に最後まで旅したわけですから、結集に参加してない弟子や、説法を個人的に聞いた一般の在家もいくらでも居たでしょう。彼らが聞いた教えも経典には入り得ない。その程度のものなんです。

そもそもブッダが何を言いたかったのかという部分さえ、過去の一部学派の仏教者の説でしかないのです。

そこから学ぼうという考えはよいですが、それを権威に思って思考を止めるのは間違いです。


仏教とは、この世を見ること。知ること。生きること。その正しい在り方の論理です。

ブッダを神格化して盲信することではありません。教条主義は目を曇らせるだけであり、フラットに世の全ての思想を見て考える視点が必要に思います。

原始仏典を軽視するべきと言ってるわけではありませんが(むしろ学ぶべき)、それが全てと思考停止はこれの位置付けを間違っていると思います。

あくまで教えの一部であり、また弟子の意図が介在しているわけで、そういう存在ではない。

またどういう存在であれ、仏教的立場としては、己の思考を一義に置き、その糧とすべき諸々の一とすべきものです。己の思考の幅に柵を設けてはならない。見えるものも見えなくなる。

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