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2009年6月22日 (月)

ダライ・ラマ14世が指導者の公選を提言

ダライ・ラマ14世:「後継者」選挙も 中国をけん制

http://mainichi.jp/select/world/news/20090622dde007030025000c.html


次期後継者について、従来の輪廻転生の活仏によらない公選による指導者をと、ダライ・ラマ14世が公の場で語ったそうである。

前から活仏は自分で最期でいいと言ってましたが、こういう公式な場で全体に対して提示したというのは初めてじゃなかろうか?


チベット密教といえば、いろいろと迷信紛いのおどろおどろしい呪術を持つ派なども多く、前時代的なところがありました。

しかしこの14世はそのへんをこれまでにも徹底的に現代的価値観で修正してきた人なのです。迷信と信仰理論を論理化して分けてきたのです。

14世は代々数あるダライ・ラマのうちの単なる一人として記憶されるレベルの人ではなく、チベット仏教を進化させた偉人として仏教史に残る存在で、恐らく後世に記憶される偉人であると思います。


日本仏教が鎌倉あたり以後、タコツボ化してほとんど進化がなかったのを思うと、いまだ絶賛進化中のチベット密教はうらやましいです。

伝わった教えに追従するばかりが日本の宗派主義仏教では当然ですが、中世の人は得られなかった知識が我々は得られるわけです。科学にしろなんにしろ。当然さらに高めるのが本来なのでしょうが、日本ではもっぱら中世の人の考えをそのまま一ミリも変えずに保持することにばかり力が注がれる。


例えば、念仏唱えたら死後天国(浄土)に行けるなんて、現代人の我々にはくだらん民間信仰の迷信としか思えないわけです。

ですが、浄土宗や浄土真宗ではそのあたりをマジメに議論して進化させようなんて話無いですよね。

ほんとは我々は天国なんて無いことは知っているし、阿弥陀如来なんて人格持った存在など居ないのも知ってるはずです。中世とは違うのです。

ですから、教学的には、一遍にしろ親鸞にしろ突き詰めた、仏の意思(他力)に全て委ねきる、無我の境地的な部分こそを中心に置く教義に刷新していくべきだと思います。

念仏一心に唱えるのはその境地を得る修行や方法論とすべきではないだろうか。

我を捨てて捨てて捨て切って阿弥陀の本願=念仏と一体化したとき、そこに仏の意思との同化があるという、一遍の「捨ててこそ!」みたいな思想ですね。親鸞の悪人正機も同じ意味合いでしょう。

そここそが念仏のキモなんじゃなかろうか。

いまだ念仏唱えてあの世で成仏なんて前時代的なことを、みんなくだらん迷信と分かってるのに訂正しないってのはどうなんだろう。


ダライ・ラマ14世の仕事を思うと、日本仏教の停滞を思わずには居られない。

進化させていくのは仏教の場合祖師軽視ではなく、祖師崇敬であると思います。浄土系に特にこのあたり思うんです。一遍にしろ親鸞にしろ、いいこともいっぱい言ってるだけに勿体無い。「どうせ念仏でしょ」と軽視されてスルーされてしまうには惜しいです。

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