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2009年6月23日 (火)

祖霊崇拝を健全化しよう

日本の仏教は葬式仏教と揶揄されます。先祖霊の供養というのが日本仏教では大きなウエイトを占めている。

とはいえ、仏舎利信仰に見られるように、先達を畏敬する観念は別に日本に限った話しではなく、世界に広くある概念で、仏教圏でも当然の発想です。

日本の場合これの元になってるのはやはり神道や、その原形となった原始アニミズムから連綿と続く祖霊信仰の概念であろうと思います。

仏教といえど、日本仏教にはその霊魂観が色濃く反映されているのではないでしょうか。


さて、ですが、仏教徒だから祖先をぞんざいに扱ってよい、祖霊崇拝はいけないことだ!…とは言おうとは思いません。

仏教は全てが連綿と連なる縁起の法則による世界観を説く宗教です。祖先から自分へと連綿と続く縁起の流れに感謝するという視点は仏教的であるとすら思います。

お釈迦様を尊ぶのと同じ文脈です。お釈迦様が説いた話しが連綿と受け継がれて今の我々仏教徒があるのですから、お釈迦さんを尊ぶのは当然の感覚です。

同じことが祖先にも同様に言えると思います。先に生きた人々が居るから今がある。


ですから、祖先や先人を尊ぶ視点は、縁起の把握に他ならず、健全なものならどんどんやりゃーいい。

ここで悪習であるのは「祖先を供養しないから祟る」、「もっと供養しないから運が開けない」みたいな霊感商法みたいな迷信です。

そういう「祟るから祀る」のではなく、「感謝するから祀る」でなければ、仏教としてはおかしいと思います。


そこで提案したいのですが、先人を祀るという文化を、自分の身内に留めず、あらゆる人の先人を祀るという大きなものに転化してはどうだろうか。

江戸時代までは、無縁仏巡礼という文化が大衆文化としてあったんですよ。

今霊場巡りとかいって御朱印集めに寺を回ったりは盛んですが、この墓巡りの文化は完全に断絶してしまっている。

南洋の島々に日本軍の遺骨収集や慰霊に回ってる人が現代では近い存在かもしれませんが、過去にはもっとポップカルチャーとして各地の墓参りをするというのが功徳を言われて流行ってたのです。


お寺の片隅には無縁仏が集められて、誰にも見向きもされず今あります。

そういうのを巡って「南無阿弥陀仏」とナムナムいって線香でもたいてくるのです。そうやって各地の無縁仏塔なんかを巡るという文化が過去あったのです。


これは一部水子供養だ先祖供養だで金巻き上げてる霊感商法まがいの現代の寺や寺モドキとは全く真逆の先祖供養の視点です。

(正式な僧籍ないけど、新興宗教作ってこの手のビジネスやってる単立が多い。先にあげた明覚寺グループなんかも似た部類)

「先人に感謝」であり「祟るから金払って祈祷してもらう」ではないのです。

己の先祖だけという狭い世界でなく、広く先人みなに感謝!という健全な先祖供養の考え方です。


この文化を復活させたらいいんじゃないかなあ。

「全国無縁仏巡りガイド」みたいな本とか出て、●●霊場巡りと同じようなブームが巻き起これば素晴らしい。


くだらない霊障で脅す霊感商法まがいの詐欺寺を潰す発想はコレっすよ!

先祖が祟ってるからお布施しろなんて、「このままじゃ浄土へ行けず地獄に行くから寄進しろ」と脅して金巻き上げてた中世の荘園経営に必死が生臭僧団と同じじゃないですか。

こんなのに騙される民衆も「いつの時代やねん」ってはなしだし、騙すほうも騙すほうだ。


もっと健全な先祖畏敬に変えていかないといけないと思います。

(ちなみに、仏教系新興宗教の霊友会や、真如苑は、先祖霊供養を重視する宗教で、霊障を恐れる人々が集います。これらが正統派仏教と名乗るのはやっぱ間違いで、やはり新興宗教としか言えないでしょう

真如苑が醍醐派の一派で正統真言密教で新興宗教ではないなんてのは、到底納得できません)

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