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2009年10月 2日 (金)

信仰美術とその魅力について

Blogタイトルを仏教美術としてますが、美術面において私の追い求めているものは別に仏教に限りません。神道美術でもキリスト教美術でも、なんでもかんでもなので、「信仰美術」としたほうが実は私の興味対象を的確に表しています。

そもそも関西育ちなので京都だ奈良だと寺宝の類はそこらにありふれていますし、学生時代から身近にあった仏教美術などに美や迫力を見出したのが本来なのですが、単にとっかかりがまず日本人ですから仏教美術中心だったというだけで、それだけに魅力を見出しているわけではないのです。


まずはやはり普通に寺宝とされるような重文だ国宝だといった仏像に興味を持ちました。中学あたりでは仏像本をいつも読んでワクワクしてました。ここまでは普通の仏像ヲタです。

しかしそのうち石仏のガイド本を見て、山奥の石仏を見るようになる。石仏を鑑賞対象として見だすと、荘厳的な意味合いで豪華かどうかよりも重要な部分に真髄を見出すようになります。すなわち、土俗的で素朴で稚拙だったりもするのですが、しかしそこに込められた真摯なる祈りの迫力に圧倒されるのです。

この域に達すると、仏教美術の見方も変わってきます。仏像や仏画の何に今まで引かれたのかの原因がはっきり自覚できるようになったのです。工芸の技巧性どうこうよりも、そこに込められた真摯なる信仰の迫力、「本気」の持つ圧力にただただ圧倒されるのです。

単に技法の巧みさであれば、何も仏像である必要はなんらなかったはずです。それにさらに加わった「本気の迫力」が仏教美術や、信仰美術にはあるのです。

ですから、その意味において、必ずしも仏教である必要はありません。キリスト教美術にもやはり「本気の迫力」はありますし、稚拙な土俗的な石仏などにも同様な、場合によっては国宝以上の迫力があるわけです。


民芸運動を主導した柳宗悦は美術品でない名も無き工人の民芸に「用の美」という概念を発見します。芸術家がアートとして創造したものにはない、制作者の「個」が削げ落ちたところに「用の美」と言われる独特の美意識を見出したのです。

後年柳は他力宗の諸信仰に着目し、この実用に添って削ぎ落とされた「用の美」を、浄土宗や融通念仏宗といった浄土信仰の他力思想になぞらえて「他力美」という表現をします。自己を無くし、他力になりきったところに美があるという思想です。


宗教芸術には似たところがあると思います。アーティストが自己表現として作った創作物にはない、実用の美があるのです。

アーティストの作品のような巧みさはなくとも、その狂信的ともいうべき過剰な熱意が篭った諸作品には、単なる芸術作品には無い「本気」があると思います。その「熱さ」に芸術品には無い魅力を私は感じます。

運慶だなんだと芸術家としても素晴らしい工人の作品にしても、そこには真剣な信仰心がまずあるわけでして、単にアーティストが自己表現として制作したものとは根本的に違うものが、信仰美術にはあるのです。



信仰芸術において、この「熱さ」とか「本気の迫力」といったものこそが私は大事に思います。

現代において芸術家が仏画やなんやといったものを巧みな技術で作ることがあります。確かに描画的には上手い。しかしなぜか空虚な感じで、迫力を感じない作品が多いように思います。(もちろんそうでない作品もあります)

芸術家が遊び気分で書いた奇抜な仏画などには、信仰心に支えられた宗教画独特の「本気の迫力」が無いわけです。技巧はすばらしいかもしれませんが、そういうものには魅力はいまいち感じられないわけです。

一方で、ヘタクソでも、熱心な信者が描いた絵などには、めまいがするほどのどうしようもないマグマのようなものが渦巻いているのを感じます。

これは仏教でなくても怪しい新宗教でもなんでも感じます。その教義にまったく同感せずとも、その人間による猛烈なる熱意の奔流がほとばしっており、ただただ慄然とするのです。

私が新宗教の美術はもっと研究しないといけないと何度か述べてきたのもそういう意味です。暑苦しさにむせるほどの濃密なる信仰心が篭ったものは新宗教であれ邪教であれ、私は人の業、人の生命力を感じ、魅力的に映ります。

柳流に言えば、個人の見栄や虚栄心といった雑味が消え去った、ただただ信仰心に純化したところに他力美が生まれるということでしょうか。


昨今の仏像ブームでは、運慶だ快慶だ、国宝だ重文だといった、技巧上の、いわば表層的な美にのみ注目が集まっているように感じます。

一方で、民間信仰的な石仏や祠といったような分野は、民俗学者以外には注目されていません。

民俗学でなく「美」という観点でこれらに注視している人は現代かなり少数派になっている印象があります。

柳の提唱した「用の美」、「他力美」という観点も、民芸運動が過去の歴史に埋没しつつあり、若い世代に忘れ去られつつある現状を感じます。

私はこの現状をどうにかしたいと考えています。宗教美術を捉える場合、通常の美術作品と同じように単なる技巧的なものだけしか注目しないのは、作品の魂を捉えられていないと思います。そこに込められたマグマのような「本気の迫力」を感じ取る感性が、宗教美術鑑賞には必要なのではないでしょうか。


民俗学やそれに類するルートからは、幸いそういうものにスポットを当てる動きをしてらっしゃるかたがわりと居ます。

生駒参道からはじまり現代スピリチュアル文化、大正心霊主義などにまで研究対象を広げている、関西の若手研究者の団体、宗教社会学の会などもそうでしょう。

新宗教建築や、霊柩車の信仰史・美術史など近代以後の信仰美術史に注目されている稀有な存在である井上章一氏なども注目の人物です。

あとは、鳥羽秘宝館や珍物件収集で知られる都築響一氏の仕事の中にも、土俗的信仰を収集する内容が多いです。(氏の仕事は外部からはサブカル的意味合いに取られがちですが、明らかに民俗学です)

都築響一氏同様、珍寺とか珍大仏などを追ってる方々もたぶんこの感覚は共有できるのではないでしょうか。

その他石仏や山岳信仰、土俗の祭り研究など、民俗学方面からは、信仰美術の本質を評価されているかたが多いように思います。


が、美術的な方面からは、柳の提唱したようなベクトルの美の評価は昨今低調に思われます。しかし美術品の中でも、こと宗教美術を捉える場合、柳の言うような一心な信仰心の生み出す美という観点は絶対に必要に私は思います。

たとえ稚拙でもとんでもない迫力と熱意がむんむんに伝わってくる狂おしい美術品が、確かにあるのです。また重文や国宝のような美術品の中にも、同様に篭った狂おしい信仰心を読み取らねば、そのものの真の魂は感じきれまいと思います。

要は芸術とは「魂」なのです。そこに込められた魂を感じずしてなにが美術鑑賞か、と思うのです。特に宗教美術においてはなおさら。


というわけで、表層的な美醜だけで留まらず、みなさんにはそこに篭った魂まで読み取ってほしいなと思うのであります。

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