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2009年11月29日 (日)

統国寺住職の崔無碍氏のトンデモ史観を批判する

忍者の起源は朝鮮だの万葉集は古代朝鮮語だのトンデモ連発の朝鮮総連の機関紙での、崔無碍氏の無茶苦茶な統国寺(ほんとは聖徳太子創建の邦福寺)史は既に取り上げましたが、さらにそのへんを掘り下げようと思う。

彼らの日本仏教徒の古刹の寺を乗っ取る理由付けがそれらしいので、こんな朝鮮労働党のトンデモプロパガンダ徹底的に糾弾せねばならない。



まず公式サイトの「統国寺について」というページを見よう。


内地は、大阪市天王寺区茶臼山の史蹟南部に隣接し、天王寺公園に接して自然樹林の林立する聖域である。

この地が難波の百済寺(難波百済大別王寺)であると比定されている説もみられ朝鮮の由来を継承する相応しい雰囲気の立地

(中略)

統国寺の由緒は、聖徳太子の創建になる名刹で、百済の僧観勒(かんろく・・・・602年に来日し、

暦法・天文学・地理学・方術などを伝来し、飛鳥寺にも住し僧正に任ぜられている)が開山住持として招かれ、推古天皇の帰依により厚遇を賜った。

寺伝(『邦福寺梵鐘銘文』)には帝が専修念仏して、西山に阿弥陀、観音、勢至の尊姿を感得したのにちなんで、別念仏寺とも称されたとある。

(中略)

また『日本霊異記』には当寺に住していた百済の僧義覚と僧慧義は般若心経を念誦して不思議な霊験を得たと伝えている。

(中略)

昭和44年には在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り、「統国寺」と命名されて再復興された。爾来脈々と法統を重ね、初代金星海、二代張泰成、三代徐泰植、当代崔無碍と継承されている。

朝鮮仏教儀礼と朝鮮の伝統のある儀式を行い、納骨堂には朝鮮人殉難者達の遺骨が奉安されており、諸精霊の供養を通して平和を祈っている。

さらに、在日同胞の民族精神を顕揚を確立するために、そして大阪地区の民族精神の象徴的役割を果たすために活動を行い、統国寺は民族寺院としての面目を呈しているのである

※資料紹介 崔無碍著『百済念仏寺の謎を解く』(統国寺刊 平成2年7月1日発行)

http://www.oct.zaq.ne.jp/gangyou/tokokuji.html

どこから突っ込んでいいのか…

この住職、『百済念仏寺の謎を解く』って本まで出してこのトンデモ説を広めようとしているようです。

まず、聖徳太子が創建して、観勒を置いたというだけで全くここは朝鮮人の寺だった場所ではない。


次に彼の理屈の拠り所になってるらしい日本書記に記される百済移民の寺、摂津・百済寺がココという理論がどうしようもない珍説。

摂津百済寺は先の記事でも書いたけどもう白鳳時代の瓦がいっぱい出てる堂ヶ芝廃寺がそうだろうとほぼ決定で、こんな珍説言ってるのはこの人だけです。百済人集落など渡来人集落は古来あったけど、こんな茶臼山んとこにあったなんて話は一切無い。もっと百済関係の名前残ったりするのは東側でしょう。

堂ヶ芝廃寺の近隣の細工谷遺跡から「百済尼」・「尼寺」と記された墨書土器が見つかり、「百済尼寺」がそこにあり、堂ヶ芝廃寺は、「尼寺」と対になる「百済寺」である可能性が有力になっています。

http://www.occpa.or.jp/bunkazaimap/every_site/html/ds.html

古地図でも百済寺を記したものがありますが、四天王寺の東北にあり、堂ヶ芝廃寺でもう決定的でしょう。そう創建から経ってない白鳳時代に2つの百済寺があるとは考えにくいですからね。

http://www.isemonogatari.com/geo/oldmap/shiten.htm

こちらの古地図見ても、茶臼山は方角が違うのはもちろん、「荒陵山」(あらはかやま、古いここらの呼び名)と別にあり、完全に百済寺とは別物。

別に邦福寺はぜんぜん百済人の帰依を集めた寺なんかじゃあない。百済寺は別。ここんとこはっきりさせておきたい。単に開山時に寺を造って仏教僧を置いただけで別に百済人のための寺じゃない。

(おそらく先立って荒陵に祀られてるどなたかを四天王寺の鎮守として取り込む意図でしょう)


こうなると『日本霊異記』の義覚と慧義の話も、まったく別の話であることになる。これはあくまで「百済寺」での話。堂ヶ芝廃寺のはなしで、まったく邦福寺の来歴と無関係。


別念仏寺という話は資料が確認できなかったので予想ですが、例えば近くの一心寺とかもそうですけど、昔は上町台地の西は海で凄く見晴らしのいい場所で、一心寺は法然が西(つまり阿弥陀仏の浄土)を望んで念仏三昧する所として庵を結んだ場所です。それが発展してああいう大きな寺になったもの。

南にいった聖天山こと、海照山 正圓寺なんかも、あれは安倍氏の氏寺、阿部寺の一坊が唯一残ったのを元禄期に西海を臨む景勝地にずらし、海照山と命名したものです。

今は両方ずっと内陸ですけど、この近辺は西に海が見下ろせる浄土を拝む景勝地なのです。

恐らく念仏が流行った時代に当然あのへんは阿弥陀浄土を拝む景勝地ですから、念仏するのにいいとなるのは必然で、そういう名所になった時期があったのでしょう。

まあ念仏者による通称ですね。黄檗宗時代に雲水さん(黄檗宗の修行僧)が集うから雲水寺と通称されていたようなもので。

当然念仏寺という通称は、遡っても空也だなんだくらいの時期でしょうし、創立期の話であるはずもないわけで、「観勒により百済古念仏寺として創建された」なんてのは意味不明なわけです。(そんな大昔に念仏寺があれば念仏の元祖として念仏者の聖地になってる)

百済古念仏寺なんて寺は歴史上はありません。




公式だとかなーりこれでも押さえたトーンで書いてますよね。「…という説もある」としたりもしてる。

ところがこれが運営団体の朝鮮総連の機関紙になるとこうなる。



市の指定文化財に登録された由緒深いお寺です。歴史学、考古学の見地からみても四天王寺と並ぶと言う学者がいる。

それは、この寺の前に茶臼山があるからです。今日まで4回にわたって発掘調査がおこなわれ、

茶臼山は5世紀の当時の天皇によって築かれた聖地であり、山であると言うことが分かりました。

日本の歴史では四天王寺が茶臼山を守っていると言う説になっている。しかし、実際は統国寺が茶臼山の本体を守っているのです。

しかもかつて、統国寺の名前が百済寺と言う訳ですから日本がこれを隠し、無視してきたのです。日本の天皇と百済家は非常に関係が深い。日本の文献にも書いてある。

日本書記、古事記、万葉集…その中に桓武天皇の母は百済の子孫であると書いてある。それを認めようとしない。

ところが、今の天皇自身が私の血には百済の血が流れていると、あっさり認めました。

4、5世 紀、難波には百済人が沢山住んでいた。その聖地が茶臼山です。その聖地を守 っているのが統国寺です。

統国寺(百済寺)は百済の僧・観勒が建てた。観勒 は日本の仏教の基や天地、地理、遁甲、(とんこう)をもって日本に来た。

遁甲とは忍者の教科書。だから忍者も百済から来た。そう言う全てのものをもっ て建てたのが、このお寺である。

1400年過ぎた今日、統国寺と改めて今、末裔である我々が住んでいる。ここに、統国寺の素晴らしさがあります」

http://www.chongryon.com/magazin/asahimiyako/ariran15.pdf

既に書いたように百済寺でもないし、観勒が建てたんじゃなく聖徳太子が建てたんです。

普通四天王寺作るにあたって先立って古墳なり神の山なりあったら、鎮守にすべく神社なり寺なり作るでしょう?そういうもんだと思いますよ。あくまで聖徳太子が建てたものであって、僧を任命しただけです。

かつて茶臼山の寺が百済寺だったとか、こっちじゃもう説じゃなくて決定的事実になってるのだから参る。もう百済寺は別地にほぼ決定的になってるっちゅーに。なんの根拠も無いこのトンデモ説をなんでこんな自信満々に言えるのか。

知らない人が誤解しちゃうでしょ。(それ狙ってるんでしょうけどもね)


崔無碍氏のインタビューはこちらにもあった。


崔無碍さん−和気山統国寺住職 和の精神で人々の心つなげたい

http://sangbong-net.hp.infoseek.co.jp/ikyouhonbun9.htm

和気山名乗るなっつーに。名前の由来の和気清麻呂 が不憫だ。


大阪市天王寺区の史跡茶臼山の南部、都会らしからぬ美しい樹林を見下ろす名勝地に建つ和気山統国寺は、長い歴史を経てきた朝鮮寺である。

住職の崔無碍さんは1951年に北海道で生まれた在日二世。朝鮮大学校卒業後、高級学校の教壇に立った崔さんが仏門に入ったのは、

先代の故徐泰植住職から「統国寺の由来を調べてほしい」と依頼されたのがきっかけだった。

調査を進めるにつれて、体が震えるような事実が浮かび上がった。当寺は1400年もの昔、聖徳太子によって創建された名刹だった。

602年に百済僧の観勒が開山住持として招かれ、「百済古念仏寺」と命名された。

歳月が流れ、1615年、大阪夏の陣の際に焼失したため、70余年後に再興された。が、その後、日本寺として継承されるうちに荒れ果てていった。

そして1970年、在日朝鮮人僧侶が当寺を引き継ぎ「統国寺」と改名したことによって、4世紀ぶりに民族寺として甦ったのである。

崔さんは2年にわたる調査記録をまとめた『百済古念仏寺の謎を解く』を上梓するとともに、宿命的な因縁を感じて当寺に入門。94年に第4代住職に就任した。


だから百済古念仏寺なんて無いって!百済寺はここじゃなくって堂ヶ芝廃寺だってば!

さりげなくウソ書いてるけど、大阪の陣のあと黄檗寺院として再興してから興隆してるっつーの。江戸期の名所絵にも出てくる有名寺です。いろいろな著名人の墓所もあり、由緒ある寺として菩提寺として信仰集めてました。江戸時代は広大な寺域もあったようですし、廃仏毀釈とかそういう話でしょう。

とはいえ戦前はあそこらは高級料亭とか集まって、大大阪時代の大人の社交場だったというし、普茶料理の料亭があったりするし、恐らく戦前もそれなりに格式ある寺としてあったのではないか。

あの周辺が戦後ごたごたしてる間にラブホ街になってしまったとかそういう話で、そんな寂れるのは昔の話ではないのではと思います。

調査記録じゃなくって、あなたの「願望」でしょ、それ。


お寺は葬式の時だけでなく、もっと生きているうちに使ってほしい。同胞でも日本人でも誰でもかまわない。

『和』というのは、質の違う者同士が協調し合うこと。『和』をつくるために重要なのは、自分自身のルーツをはっきり自覚することです。そうした上で、自分と異なる考え方を認めながら、和していくことが大切なのです

和の精神を在日全体、民族全体の和につなげるために心血をそそぐ


なんで日本仏教徒の古刹を乗っ取ってそんなことしゃあしゃあと言えるのだろう…

どの口で和とか不遜にも言いますか。

大阪市民で邦福寺を菩提寺としてた家とか乗っ取って在日寺にしてしまった結果移転をよぎなくされてきてるわけですよ。

和を乱してるのはおたくさんでしょう? なんで生駒の民俗信仰的なシャーマニズム中心の朝鮮寺が由来なのに、伝統ある寺乗っ取って権威を買おうとするのだか。プライドあるなら別個に自分らの寺を新たに作ればよかったはなしで、日本仏教徒の紡いできた古刹を乗っ取ろうなんて下衆な行動としか言いようが無い。

しょせん朝鮮総連のプロパガンダと在日界食い込みのための組織。やることが下品なんですよ。ただの工作活動のために邦福寺がやられたというようにしか見えないです。


この寺の歴史を本当に調べたなら、これが下衆も下衆な意図で乗っ取りをかけたバカにした話ということが分かるはずで、こんな戯けたこと言えるはずがない。崔無碍さん、政治活動は他所でやってください。

邦福寺が日本書紀に記述のある百済寺だとかトンデモをばらまかないでください。百済古念仏寺なんて架空の寺を作り出さないでください。

そして早く日本仏教の寺を返してください。

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