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2009年12月14日 (月)

天王寺の巫女町

民俗学マニヤなので、民俗学の本を好きでよく読みます。(毎度の習合美術マニヤとか石仏好き、さらには新宗教の習俗研究好きまでもが、結局ここに集約される)

さて、イタコだのオカミンだのノロだの日本民俗におけるシャーマニズム、巫覡文化についても興味分野です。


岩手の大和宗とかもう風前の灯で後継者も居ずもうなくなろうとしてる文化です。(古くは天台宗地神盲僧派。戦前、宗教団体法の結果天台宗から分離することになった盲人の教団。ボサマと称される盲僧と神降ろしの巫女であるオガミサマの業界団体)

昔は盲人の子が生まれると、楽器とかやる芸人か、神寄せ巫女に弟子入りさせて食っていけるよう職能を付けるものだったそうなのですが、盲学校制度ができた結果、弟子入りさせる親はピタリと居なくなり、今では最年少ですらお婆さんで風前の灯火。(もうそれすら逝ってしまわれたかも)

大和宗については以下の本が詳しく、来歴や実情を数々のお婆さんに聞き取りしてまとめあげている。


『巫女の民俗学』

著者:川村邦光

出版社:青弓社

価格:2400円

発行日:1991年1月30日


1991の本か…大和宗とかどうなってんだろう。20年ここから経ってるわけで。この本の記載ではお婆さんしかもう居ない。全滅の可能性高いんじゃないのか。

もちろん盲目でない祈祷師の類は流れをくみつつ居るとは思うんですが、中世から続いてきた盲人シャーマニズムの歴史は終わってるかもしれない。盲人シャーマニズムは野良祈祷師とは違って、天台宗地神盲僧派としてきちんと免状も出して、唱え文やらやりかた、修行の儀式等マニュアル化かなりされて祖師相伝で規律だてて伝わってきたようなので、それら伝統の断絶は文化が途切れることであり淋しくもあります。






さて、こういう東北の巫女シャーマニズムや、沖縄のそれなんかはわりと知られている。

しかし近世には全国各地にこのような梓巫女の文化があったのです。


しかし明治になると、開化主義に煽られてこれらの民俗文化は徹底弾圧を受ける時代になります。

山梨で1869年(明治2年)に小正月の道祖神祭が

「若者猥りに威を使い、勢いをなし、そのなす所、すべて狂の如し……新婚・新築、或いは吉事あるの家に迫りて、祭資を債り、その多寡を推論して決せず。輒もすれば暴行あるに至る」(効力が無かったため三年後にも出されている)という理由で禁止されているそうです。

これは早い例ですが、1872年にはもっと多種多様に規制は広がっていて、正月の門松、裸参り、塞の神(左義長)、粥釣り、大綱引き(挽合い)、などの小正月行事、悪魔祓い、田植え踊り、念仏踊り、七夕、ねぶた、虫追い、疫神送り、地蔵祭、川施餓鬼、お盆の迎え火・送り火、盂蘭盆会、盆踊り、花火、祭礼の際の異形の風体(半裸、仮装、男装・女装)、金勢神の祭祀、地芝居、清水寺の舞台飛び(願かけが叶うかどうかを占った)、闘犬、闘鶏、男色、鉄漿(歯染め)、越後獅子、遍路、若者組など

多種多様なものに及んでいる。


1873年太政官布告では、人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節を廃止し、元始祭、新年宴会、孝明天皇祭、紀元節、神嘗祭、天長節、新嘗祭の八祝祭日を制定した。

民間で自主的に取り決められ習俗となっていた休日(遊び日)を廃止させて、国家が全国一律に休日を管理しようとし、数々の日が廃止された。また同年に太陰暦から太陽暦へ改暦がある。

さらに同年、明治天皇が断髪、皇后がお歯黒を取り眉墨を落とすなど、開化のプロパガンダが行われた。

さらに同年、1873年教部省通達として梓巫・市子、並びに憑祈祷・狐下げなどろ相唱え、玉占・口寄等の所業を以って、人民を眩惑せしめ候儀、自今一切禁止」というのが出て、全国一律に巫女など祈祷師の儀礼は制度的に取り締まりの対象となります。


今の感覚からすると、七夕とかまで規制するの!?門松まで!?とびっくりですが、そういう徹底的な民衆風俗の破壊が行われたのです。

廃仏毀釈の荒らしもそういう中行われたわけです。神道においてすらそれぞれの神社の地元に伝わる祭祀や祭りが、破壊されていったわけです。

よく廃仏毀釈は国家は強制してない!民間が勝手にやったんだ!とかヨタを言う人が居ますが、大嘘です。国家がやったのです。

寺領を取り上げまくって転用などを全国でやりまくっています。

こういう当時の時代背景が分かっていれば、廃仏毀釈が民間の行いだなんていうのが全くのデタラメであることが分かろうかと思います。

私はこの幼稚な開化主義は、仏教も神道も潰し、日本の民族に根付いた習俗からこれらを乖離させてしまった酷い蛮行に思います。国家神道とかを持ち上げる気には到底なれませんね。神道ってそんな画一的なもんじゃないでしょう。

「本来の神道」なんてものを重んじればこそ、これら民間の雑多な習俗を重んじねばならぬのではないかと考えます。




さて、ここから本題。ここまでは上記大和宗の本で得たりした話をしてるだけで、当時の時代背景です。

問題は、私が住んでいる大阪にもこのような梓巫女の伝統があり、巫女町があったという事実を最近知ったことです。


第一法規出版株式会社から出ていた「日本の民俗」シリーズの27巻、大阪府を読みました。著者は高谷重夫氏、池田高校校長、日本民俗学会評議員、近畿民俗学会代表理事というかたです。

大阪は日本の都道府県で最も民俗が残ってない地ではなかろうかというのが氏の弁。狭い地域に、江戸時代から高度に都市化され、民俗的なものが残る余地が無いわけです。したがってこの本でもほとんどが能勢とか北の山間や、南の和泉のほうとか、南北の田舎にわずかに残る習俗になってしまっている。

大阪の都市部の民俗風習についてはなかなか無いし、まだ調査が足りないと氏も述べておられます。住吉大社の御田植神事とか数々の講組織、宮座などせいぜい限られます。

で、そんな中、数少ない都市の民俗として、おおっと思ったのが、大阪におけるシャーマニズム。


『中河内郡誌』(大正12年)には、「稲荷下げ、狸下げ、或ひは巫女寄せの類は本郡各所に行はるる所にして」とあるが、これは河内地方に限らず府下全域で大正あたりまではあった風俗のようです。

イナリサゲ、イナリオロシというのは稲荷の神を寄せるのを生業とする民間の宗教家のことで、一例をあげると枚方市津田に戦前まであったイナリサゲの老女はかなり名の知られた霊能者で、家には祭壇や稲荷社が設けられており、近隣だけでなくかなり遠方から参詣があったとのこと。

祈祷と卜占がその内容で、彼女は祈祷の際は水垢離し身を清め、神がかったという。その稲荷社とか残ってないのかな?

豊能郡の商家の話では、そこらでは屋内に商売の守り神として稲荷を祀る家があり、そういう家々では商売繁盛の祈祷を、定期的にイナリオロシの男をまねいてやらせることがあったそうです。店内に祭壇があり、イナリオロシの男が祈祷し、しだいに神がかり、その店の商売繁盛を預言するというもので、多くの見物人が集まり、集まった子供にお菓子が振舞われたという。

一種の商売のセールスイベントですかねえ。

大正あたりまでは、なんだかんだでこの手の都市型シャーマンはわりとメジャーな存在だったみたいです。


さて、そんなかでも貴重な話が、クロゴウシ。

天王寺に巫女町と呼ばれる、神寄せのシャーマンが集まる一帯が戦前まであったというのだ。マジで?大阪にイタコみたいなものが?

大阪では人が死んで百箇日、または一周忌が済んだ頃、この巫女町に行って死口を寄せる風があったというのです。

その他口寄せ巫女は、東大阪市水走や柏原市国分にも居たが、天王寺の巫女が一番高名であったと経験者の話。その人の話では、妻の死後頼んだが、最初警察の目を気にして断られたが、再度頼んでようやくし口寄せをしてもらったそうです。やはり国家から認められた存在でなく、裏家業としてあったのでしょう。

まあ要するに、飛田新地みたいなものでしょう。そういう治外法権的なお目こぼし的な場所が巫女町であったのだろうと思います。


巫女町は狭い路地で、ここに数人の巫女が住んでいた。表は格子作りで、入り口には三幅の暖簾をかけ、「くろごうし某」、「やぶのはた某」と仮名で名が染め抜いてあった。家の表の間には祭壇があって、口寄せを頼まれた巫女はその前に座り、犬の首を入れたという小箱(外法箱ってやつ?)を手に持った弓で叩きながら、神降ろしの唱え事をする。六根清浄を唱え、天地の神々・諸仏の名を呼んでこれを寄せる。それから死者の霊が憑いて口寄せとなる。

この巫女文化については近松門左衛門の浄瑠璃にも見える。これをクロゴウシ(黒格子)と呼んだのは表口の格子からきたというが、別の説もあるという。



…なんだこれは。こんなものがあんなとこにあったというの?しかも戦前まで。

普通に通ってる場所じゃあないの。

気になったのでググってみることにする。


こちらに巫女町のことが詳しくまとまっていた。


天王寺区の地下鉄谷町線四天王寺前駅の近くに天王寺警察署がある。その北裏の東西の細い筋(東は上本町、西は谷町の間)を俗に巫女町といっていた。江戸中期以来、ここに梓巫女(あずまみこ)の集団があって、巫女(みこ)の口寄せを業としていたので、この俗称が生じたもの。大正の初期までなおその余影を残していた。

西沢一鳳(嘉永五年没)の『皇都午睡』初編中巻に、

 「天王寺のはやし町は梓巫女の住める処にして、二季の彼岸には在所の人のここに来りて、亡き人の口を寄するとて、梓の弓に其鬼神を招き往事を泣く。殊に二季の彼岸にひとしほ哀れに覚ゆかし。このはやし町に住める巫女の名の昔めきてをかしければ書付く。橘屋小女郎、隠居藤、黒格子の元家、栴檀の木の姉、薮の内の亀、升屋女郎、藤屋の小女郎、黄格子の万、黒格子の嫁、此余にもあまたある中に、黒格子殊に名高し」

 『浪華百事談』(著者不詳、明治)巻の九には、

 「今六万体とよべる地より、天王寺寺町に出る処に、東へ通ずる狭き道路あり。是を明治以前にはみこまちと呼び、梓みこの数軒住みける地なり。其家みな格子づくりにて、表の入口の外には、長三尺ばかりの三幅暖簾を木綿にて製し、それに大いなる紋を染めぬき、仮字にて、くろがうし云々、やぶのはた何々など巫の名をも染めぬき、入口の上には注連縄をはり、黒格子といへるは、格子を墨にてぬり、家の内の表の間には、何か祀りてうすぐらくなせり。此に俗人死せるものの口寄せといへる事を、往いて依頼すれば、巫出て座し、前に小さき箱をおき、弓を手にもち、箱をたたき、先づ神おろしといへる事を為し、次に亡者の来りて、言葉を発すことをなすに、さも哀れにいひ、其謝儀を請ふものより受くるなり。彼の東国にある信濃みこといへると同様の者にて、此は他に出でずして家にてなすものなり。維新の際停止となれり」

とあるが、その後もほとんど公然と行われていて、彼岸のころは特に繁昌し、人力車夫と連格を取って案内される者も多かった。大正初期の料金は五十銭で、当時としてはずいぶん高価であったが、車夫はそのうちの二十銭を客引料として取得したという。

明治中期には、せんだんの木・籔の内・信濃巫女・黒格子の四軒があり、最後まで残ったのは近松の『遊君三世相』にも出てくる黒格子であるが、神下(かみおろし)しという看板は止めて、稲荷下げとか、巳(みい)さんとかの名のもとに商売をつづけていた。

神おろしの文言は奇妙なもので、近松の『緋縮緬卯月の紅葉』(宝永)上の巻には、「天清浄地清浄、内外(ないげ)清浄六根清浄、天の神地の神家(や)の内には井の神、庭の神、かまどの神、神の数は、八百万(やおよろず)、過去の仏未来の仏、弥陀・薬師・弥勒・阿閃、観音・勢至・普賢菩薩・智恵文殊、三国伝来仏法流布、聖徳太子の御本地は、霊山(りょうぜん)浄土三界の教主世尊の御事なり。この御教(おんおしえ)の梓弓、釈迦の子神子(みこ)が弦音(つるおと)に、引かれ誘はれ寄り来り、逢ひたさ見たさに寄り来たよなう」

というようにかなり長く書綴られている。

口寄せには、生口(いきぐち)と死口(しにくち)とがあって、生口は生きている人を、死口は亡き人を、いずれもその場へ呼び寄せて、思う心のうちを聞き取るのである。

『卯月の紅葉』では、生口を寄せるのであって、

「我れなつかしとは覚束なみの、寄り来る人は誰ぞいの、誰とて二人思ふ身か、一つ根節(ねぶし)の双股竹、与兵衛を夫と思へばこそ、問うて給(たも)って嬉しゃの、問はれて今の恥かしや、さて世の中の憂き節はなう、我が善きに人の悪しきがあらばこそ、破れ車でわが悪い、とは言ひながら、扇の影の立て烏帽子」

といった調子がつづいてゆく。

同じく近松の『卯月の潤色(いろあげ)』には再びこの梓巫女が使われていて、

「千早振る御(み)さき祓(ばらい)の道浄(きよ)め天清浄とは水火の浄め、地清浄とは家内(やうち)の浄め、内外(げ)六根清浄とは、世に亡き魂の道しるベ、六道四生の浄めぞかし」

とまず御先祓いをしてから、口寄せにかかる。

「釈迦の子神子(みこ)が梓弓、この弦音に寄り来たは、梅田に屍(かばね)さらしなや、伯母様の手向有難や、なつかしの父(てて)御前、合の枕の与兵衛様、忘れがたなき古は、生口寄せた我なれど、今死口に寄り人が、語りたいぞや問はれたやなう」

とて以下長文の口寄せがあるが、『卯月の紅葉』は男の生口、これは女の死口である。

http://www.eonet.ne.jp/~pilehead/osaka_word/text/honbunmi.htm


どうも「黒格子」というのは屋号で、別のとこもいろいろあった様子。さらに黒格子は一番高名で、黒格子名を屋号に入れたのが複数あることから、流派的なものがあったのかもしれない。黒格子が元祖で、その弟子筋とかいろいろあるのかもしれない。


さて、問題は巫女町があった場所である。上記サイトでは天王寺警察の北裏の東西の路地とある。

昨日通ったんですが、天王寺警察の北側の道は路地でなく今はぶっとい車道です。全くそんな面影は無い。

一方南側の道ですが、格子造りの古い民家が2件ほどあった!!!ここじゃないのか?

黒い格子の家と、茶色い格子の家があった。茶色い格子は小さい家で、違うような気もするが、黒格子の家は大きく、カタギの家じゃない雰囲気がある。

表札の横に小さい表札で「花月庵」とあった。なんだろう?なにかお店過去やってたのだろうか。

これが最後まで残ったという黒格子の家屋が転売されたりしたあとの地だったりしたら面白いんだけども。

なお表にあったという祭壇は無かった。

しかし黒格子の本家でないにしても分家黒格子の類の建物の遺物である可能性は無くはないかもしれない。


民俗学者の上野誠氏のページの日記で2008年9月13日に「夕方、巫女町の調査のために四天王寺警察署の裏手に。」とあるのを発見。何か分かったんだろうか?でもたぶんあの裏手を見てもなにも得るものはないと思う。何か発見されたのだろうか…

http://www.manyou.jp/degicame/0809.html


あとは内容かぶるけどこちらにも天王寺の黒格子について情報が

http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80

四天王寺のお膝元だけあって神というより仏に祈る比率が高いとか、政府の禁があるといって受け付けてくれないとかいう当時の様子とか、参考になる。


巫女町、やっぱよくわからないっすね…

黒格子のこと知りたければ、やはりこの古い黒い格子作りの民家に聞くのがいいのかもしれない。少なくとも古くからここにある家であるのは間違いないのだから。


ああ、そういえば、これは四天王寺の北側ですが、南側の参道ぞいに、なんかいつのまにか占い師の店とかがちらほらありますね。

彼ら彼女らが現代の黒格子の後継者なのかもしれませんね。本来の巫女町もそんな感じで大衆参拝スポット、ハレの場である四天王寺に付随する香具師的なものとしてはじまったのではないでしょうか。


----------------

追記

『花月庵』についてググると、浪速の諸分野の有名大家をまとめたサイトがあった

http://www.azumanet.co.jp/test/morikinseki/kanren/kanren_a.htm

明治15年発行の)『浪華の魁』によれば、翰墨賞古諸派の項に、花月庵という号を持つ天王寺村の人物が居る。翰墨賞古諸派って何か分からんけど、書家?


さらに、花月庵という名は煎茶道において煎茶道花月庵家元、田中青坡氏というのが当時居る。

http://www.fujiwara-chaho.co.jp/hpgen/HPB/entries/444.html

全日本煎茶道連盟結成に際しても家元代理送り、当時の煎茶界の大家であったようだ。

そういや、表札田中だったなあ…煎茶道の家元ならカタギの家っぽくないのも分かる。


両者が同一人物とすると、明治期の文人とか風流人であったというところかな。

巫女町関係無いな…

ただし御近所なのは間違いないし、当時から現地に続く古い家柄というのは確かだろう。

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