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2010年3月13日 (土)

仏教、ジャイナ教が脅威を感じた男、マッカリ・ゴーサーラ

インドの歴史は哲学の歴史です。ヴェーダ=バラモン教に対する異端派としてウパニシャッドが生まれ(しかしのちには聖典として取り入れられる)、そしてブッダの時代には六師外道と仏典では書かれるような反バラモン教の哲学者がうじゃうじゃ出てきます。仏教もジャイナ教もそういうブームの中生まれてきた説。

結果的に王様がブッダの唱えた縁起説による哲学を受け入れたのでインド全土に波及しましたが、六師外道と後世の経典を編纂した仏教の弟子たちに誹謗される思想もなかなかにおもしろい。


六師外道といわれた当時の代表的なアンチバラモン教の新説で、今も残り有名なのはジャイナ教のマハー・ヴィーラでしょう。これは今もちゃんと宗教として続いています。神戸に寺院があるので、そのうち一度訪れたいと思っています。

仏教側からは六師外道といいますが、客観的に見れば、当時七師がアンチバラモンの新宗教として修行者の支持を集めていたというべきです。ブッダは本来そのカテゴリーの1なのです。

結果的に縁起説のブッダが国家宗教になるわけですが、その他ジャイナ教なども普通に続きます。

六師のそれぞれの説は多くはその提唱者のみの学説で、弟子も居るでしょうが別に布教して宗教団体のようになってくような種類の思想でもないものも多く、説として残っても教団としては消えるものが多い。

ですがジャイナ教なんかは仏教と同じで宗教団体化に成功します。

仏教とジャイナ教しかあまり知名度が無いですが、実はもう1つ、六師の1人、マッカリ・ゴーサーラの決定論はアージーヴィカ教へと発展します。


今はもちろんアージーヴィカ教は残っていません。

…が、少なくとも13世紀までは現存し、また往時は仏教・ジャイナ教と対抗していたようです。

そのため、仏教の経典では六師の中でも特に敵視されていますし、ジャイナ教経典でも敵視されまくってるそうです。



そもそものマッカリ・ゴーサーラの思想は、決定論といって、全てはもう決まってるのだという宿命論で世界を説明した。

バラモン教の前世の業があるからバラモンにお布施したり苦行したりして来世を願うとか、そういうのは無駄無駄無駄!っていう思想です。

そんなもんやろうがやるまいが、もう世界はこのあとこうなってああなって、そうなるっつーのはもう決定してるのだ!世界の終わりも何もかも全部既に決まってる!無駄な足掻きはみっともない!わきまえろ!…って思想。


アージーヴィカ教になると、当然ジャイナ教でもそうですが(また仏教でも当然そうなのでしょう)マッカリ・ゴーサーラの説から離れて、苦行主義的になります。

アージーヴィカ教とマッカリ・ゴーサーラの説は必ずしもイコールではないのでしょうが、そもそもの彼の説は仏教徒の私から見てもなかなかおもしろいことを言っている。

仏教徒やジャイナ教徒が最も敵視したのも分かります。ある意味真理を突いている。特に仏教の縁起説を終わらせる論理を持つのは明らかにコレだ。


要するに、仏教の縁起説ってのは因があるから果がある。つまり風が吹けば桶屋が儲かる式にこの世はまわっとる。だからそれを智慧で理解することが苦を無くし幸福に生きる術ですよってはなしです。

マッカリ・ゴーサーラの立場でこれに反論するならば、風が吹けば桶屋が儲かる、因果関係が必ずあるというのなら、この世が始まったときに起こった因が巡り巡って今の状況があるのであり、今ブッダが仏教開いたのもその果てでしかなく、この先どうなるかも全部決定していることになるではないか。因と果が必ず対応するというのなら、そういうことである。定めに従って全ては決まりきったように進んでいくに過ぎない。仏教の縁起説は終わった。


これはもしかしたら真実かもしれない。ビッグバンでこの宇宙が始まった。無数の原子が飛び散り衝突繰り返しながら広がっていく。そういう原子の複雑な物理的衝突の果てに星ができ、地球ができ、人ができ、ブッダが生まれ、仏教を産み、今のようになった。これはビッグバンの時点で既に決定したことではないのか?

つまり、人が意思でこうしてるというようなことも、しょせん原子や素粒子やが物理的にビッグバン以来の慣性で動き続けている果てであるということです。人の神経細胞もなにもかも全て結局突き詰めればそういう粒子でしかない。私が今ここに生まれているのも、しょせんそういう粒子の衝突の果てなのである。

今私がこんなBlog記事を書いているのも、ビッグバンの粒子がぶつかり合いつつ星が出来、隕石が衝突し、アミノ酸が生まれ、生物が出来、人が生まれ、ブッダが生まれ…という物理法則の複雑な果てに過ぎない。

要するにビリヤードと同じような素粒子の玉突き衝突がもっととんでもない量でとんでもない複雑な衝突の末にあるということ。

これはビッグバン説を信ずるなら、十分ありえる仮説である。

マッカリ・ゴーサーラという男はよくも恐ろしい発想をそんな大昔にするものだ。仏教徒の私ですが、実際彼は相当凄い哲学者と思います。

仏教の縁起説を殺せる理屈ですよ、これ。(仏教だけでなく全ての宗教も文明を殺しかねないが)


ただ、もちろんこれは哲学上の話。それは真実かもしれないが、だからなんでも受け入れるんじゃ世の中つまらないし、縁起(つまりマッカリ・ゴーサーラに言わせれば既に決定した定め)を解いて苦をなんとかしようとあがきたい。それが既にもう決まってることであっても、実際にはちっぽけな存在である我々はその因果律の果てを見ることはできないのだから、それは結局(我々にとっては)無いのと同じ。

マッカリ・ゴーサーラの説だとそうやって因果律を改善しようとその人間が足掻くのすら既に決定していたことというのだろうし、それは事実かもしれないが、でもそれで足掻けばいいじゃないか。

決定論は凄い論理だし、事実かもしれないが、だからといって神でもない我々はそうだとしても足掻くしかないのです。

そういう意味で、仏教という選択肢は現実的な解であろうと思います。


マッカリ・ゴーサーラの決定論もそれはそれで、そこから先に「では我々人間はどうするか?」という部分によってはいい宗教になりえる気はする。この既に何もかも決まってるという絶望的な中、だからどうだというのか?

その一つの解は仏教だとも思うのですが、決定論者の教団というアージーヴィカ教ではどうなのか?

アージーヴィカ教は決定論者の宗教といってもいろんな説の果てにあり、なんもかも決定しとるよ!…で終わっていない。終わっていたら宗教団体になんかなりえない。

本来バラモン教の儀礼や苦行なんやの功徳を否定するのがマッカリ・ゴーサーラ言いたいことなんでしょうが、既に述べたように苦行的になります。

決定論はすなわち予言や占いと通じますから、占い師のようになっていったようです。

放浪と苦行を義務付け、呪術師のようなことをやっていたのだそうです。


アージーヴィカでは、宿命を説く一方で、苦行を義務づけている。これは、一見、矛盾するようにみえるが、アージーヴィカ教徒にとって、解脱は「転がされた糸玉がすっかり解け終わる」と比喩されるように、心、ことば、身体によるすべての行為が消滅することであり、

それは、半年にわたって飲食を減らしていき、最後は何も飲まず、食せずして死に至る「スッダーパーヤナ」と呼称される苦行によって現実化すると考えられていたためである。

なお、丸井浩は、おそらくは苦行によって宿命を安らかに受け入れる境地をめざしていたものではないかと推定している

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9

苦行が何故決定論に必要になるのか?なんか元々のマッカリ・ゴーサーラの思想とは真逆です(苦行なんか無駄!って思想)。

さっさと人生終われ!って意味なんだろうか?丸井氏のいうようにこれからの宿命を受け入れられるよう強き精神を養うための苦行なんだろうか?

推論するしかないが、人生も死後も全て今後辿る経過は決まってる!となれば、これから訪れる苦難の日々を覚悟し、さすれば、やはり心構えをしようとするのが自然ではないだろうか。その精神を作ろうという発想に行ったのではないかと私は思います。

苦行はバラモン教などのような解脱のためでなく、解脱できぬこの先の苦の道に慣れるためと考えると、決定論と整合性が付く。同じ苦行でもバラモン教のそれとは全く思想的には違うのではなかろうか。


不合理な苦行はどうかと思うが、仏教その他のように智慧の獲得により苦を克服しよう!といかず、人の世はいろいろ苦しいことがあるもんだと達観して、それに打ち勝つ精神の鍛錬に向かうというのは、ある意味健全な発想かもしれない。それもまた苦の克服の一種であるわけで、結局仏教と似通ってくるわけですが…

「あきらめ教」みたいな方向性にマッカリ・ゴーサーラの決定論を持っていくのは可能かもしれないね。


アージーヴィカ教は遺跡や文献がさっぱり残っていないので謎の宗教です。

仏教やジャイナ教が猛烈に敵視してきましたから(だってその根幹を揺るがしちゃう理論だもの)、その関係とも言われます。

しかし数少ないながら遺跡も発見されているようです。


アージーヴィカ教は、古代インドの宗教の一つである。マウリヤ朝のアショーカ王の碑文に仏教、バラモン教、ジャイナ教と並んで「アージーヴィカ」の名前が出ている。仏教やジャイナ教と同時期に生まれた宗教である。一時期はバラモン教やジャイナ教、仏教などと並ぶ一大宗教であった。

マッカリ・ゴーサーラが主張した「運命がすべてを決定している」という運命決定論、運命論、宿命論を奉じていた。さらに意志に基づく行為や、修行による解脱をも否定した。エローラにあるローマス・リシ窟(前3世紀の石窟寺院)はアージーヴィカ教徒のためのものであったらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AB%E6%95%99

前3世紀にビハール州のバラーバル・ナーガールジュニ丘陵に開鑿されたローマス・リシ石窟とスダーマ窟ですが、これらは銘文からアージーヴィカ教という宗教に属するものであったことが明らかになっています。

http://www16.plala.or.jp/southasia-ua/column_018.html


六師外道+ブッダの7師などの思想を並べたとき、まず彼らはみな反バラモン教の論理を目的としています。

バラモン教の言う「これは功徳がある」「これをすれば輪廻から逃れられる」といったような迷信をいかに打破するかがベクトルになっている。

マハーヴィーラ(ジャイナ教)の相対主義や、サンジャヤ・ベーラッティプッタ(舎利弗&目連の元々の師)の懐疑論も、結局のところ聖典たるヴェーダの説く「○○は功徳あるよ!」式の当時の当然の*事実*を「そうとは限らない」と否定することにその目的がある。

そんな中、ブッダと今回取り上げたマッカリ・ゴーサーラはかなり特異な切り込み方をした2名のように思えます。結局のところ共に「業」というバラモン教の支配の論理の根幹に切り込んでいるわけです。

ブッダは行為と結果の因果によると説き、マッカリ・ゴーサーラは宿命を持って、バラモンに奉仕することによる功徳で救われるとするバラモン教の業の理論を否定したのです。

仏教はジャイナ教と兄弟宗教と言われたり、アージーヴィカ教やマッカリ・ゴーサーラは仏教と対極という言われ方をよくしますが、

実は兄弟的なのは仏教とマッカリ・ゴーサーラの決定論ではなかろうか。仏教経典のマッカリ・ゴーサーラ嫌悪は、あれは同族嫌悪ですよ。どちらもバラモンがヴェーダを用いて言うような迷信的な儀礼の功徳では世界は動かぬと否定し、この世の現実的法則性による世界観を説いている。

違いはマッカリ・ゴーサーラがその法則性による事象の説明をもって世界は決定していると全てを放棄するのに対し、仏教はその法則性(即ち因果)を智慧を磨くことにより自分の手で管理しようと向上努力を主軸に置くことである。


ブッダとマッカリ・ゴーサーラは完全に同時代人であり、恐らく双方存在も理論も知っていて、影響も与え合ってるでしょう。

マッカリ・ゴーサーラの思想はもはやはっきり分かるものではないのでアレですが、単に定めが決まってると言ってるだけでなく、物の持つ性質や宿命なんやといった元来持つ要素が組み合わさることによって結果が決まるという一種の複雑系思想があるようですが、これなんか仏教の縁起説っぽくもあります。行為によって能動的に変わるのでなく、元から物の持つ要素(宿命)の結合によるってあたりが違いますが。

マッカリ・ゴーサーラは仏教の行為と結果という現実的な世界の説明を、同じ行為を行っても違う結果が起こることを持って「行為によって世界は動かない、それぞれの物や人に宿命という要素があり、それが関わっている」と説き否定する。

一方ブッダの理論では、その行為の結果が読めぬのは我々が愚者であるから見えぬのだ、もっと賢くあれ!と説くわけです。

両者の争点は、凄くテキトーなこと言っちゃえば、縁起は我々にはわかんね!と諦めるか、分かるまで智慧を磨く!と苦難の道を行くかではなかろうか。マッカリ・ゴーサーラがモノの持つ宿命の複雑系によって結果や未来が起こっていくと考えるのでしたら、それは複雑な因果をもう宿命として諦めてしまうことと同義だろう。

行為の結果が思ったようにならぬのを「宿命」と片付けるか、結果を読みきれてないだけと考えるか、そういう話し。

人はバカだから、そんななんでも完全に読めるわけないし、別にアージーヴィカ教のような「あきらめ・達観」や精神修養で耐えるなんて対処法もぜんぜん解としてアリだと思うのですが、それは「宿命ゆえ」でなく、仏教徒としては「それが妥当な解だから」という論理的な理由で選ぶべきでありましょう。

だからマッカリ・ゴーサーラは惜しい!相当凄いところまで行ってると思います。分からないことを「宿命」としてしまったか、「自分が未熟なだけではないか?」としたかがブッダとの分かれ目だと思います。これは生来の性格的なものなのかなあ…

世界全体が決定した運命の繋がりで進んでいるというなんて思想は、素粒子物理学とか複雑系理論のような非常に現代的ともいえる高度な思想だし、仏教側にも与えた影響あるかもしれない。


六師思想は仏教との対比で面白い思想が多いですが、よく分からないところが多い。六師研究がもっと進めばいいなあと思いました。

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