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2012年3月29日 (木)

仏教信者から考えるエホバの証人の思想批判

エホバの証人こと、ものみの塔聖書冊子協会というと、輸血拒否で子供が死亡とか、布教に婦人が子供連れて周るのをやらせるとか、二世の被害といったことが社会問題になることが多い。

キリスト教系という自称ではあるが、特徴としてキリスト教の聖典たる新約聖書だけでなく、ユダヤ教の聖典である旧約聖書を特に重んじる教義で特徴づけられようと思う。

旧約・新約聖書を独自解釈した「新世界訳聖書」というものを聖典としていますが、かなり旧約的な立場を重んじている。

キリスト教というけど、ユダヤ教的ともいえ、これはもうキリスト教の一派というより、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった兄弟宗教同士の距離感くらいの間がキリスト教との間にあるように思う。

あくまで救世主の固有名詞として「イエス」という名称を用いているだけで、これは旧約聖書の終末論による脅しをメインテーマとした宗教で、慈愛を説くキリスト教とは相当な距離がある。私はこれはキリスト教の一派とはとても思えません。


ユダヤ教の聖典・旧約聖書を重んじるということで、結果として選民思想とハルマゲドン思想がエホバの思想の根幹となっている。

「サタンが世界を支配しつつある!滅びの日は近い!」式の文句並べたチラシを貰った人も多いと思う。ノストラダムスの1999年も、今度はアセンションアセンション言ってる2012年も、エホバ方面はハルマゲドン、この世の破滅を煽ります。


名称にもなっている「ものみの塔」。

これはつまり、ハルマゲドンで地上が週末を迎え劫火で焼き尽くされる阿鼻叫喚の地獄の中、エホバの敬虔な信者だけが「物見の塔」でそれを眺めることになるという意味です。まさにユダヤ教のハルマゲドンと選民だけが生き残るという思想のコピーです。


エホバの勧誘というのは、結局のところエホバに従って生きないと、まもなくやってくるハルマゲドンで死にますよ!助かるために入信しましょう!…ということです。

熱心な信者は、来る終末を恐れ、輸血を拒否とかいろいろムチャなエホバの証人の教えに従っているのです。恐怖による支配がそこにはあります。



さて、我々仏教徒、特に大乗仏教徒が自分らのありようとして理想とする聖人は「菩薩」です。観音菩薩はこの娑婆世界の人々を漏れなく救わんと決意するわけです。地蔵菩薩は地獄で苦しむ亡者を救わんと地獄へ赴きます。

「菩薩」というのは、自分一人悟って極楽に安住せず、あえて地獄へ赴き、苦しむ民を救おう、民と共にあらんという捨身の決意の尊さをいうものです。このような生き方を大乗仏教では菩薩といい、真の悟りの道とする。

己だけ助かってヌクヌクなんてのは涅槃(ニルヴァーナ、全てが円満になった究極の悟りの境地)ではなく、他人もなにもかもが救われて初めて真の涅槃であると考えます。


この思想からすると、みんながハルマゲドンで神の劫火で焼かれ地獄へ落ちる中、物見の塔でそれ眺めて「あーよかった。エホバを称えます!」ってのは良しとしない。

地獄の業火へあえて行き、民とともに苦しみあがく、それが大乗の菩薩の心意気です。

他人が滅びるの見るのってそんなの幸せですか?そんな居心地悪いのイヤです。そんな寝覚め悪いの、真の安寧たりえない。大乗の菩薩を理想とする我々は民と共に滅ぶほうを選ぶ。


みんなが苦しんでるときに物見の塔で眺めてる人と、そこへ分け入って一緒に焼かれる人、どっちが尊いでしょう?我々からすると後者こそ菩薩であると考えます。

エホバの神的には前者こそがエホバに従順な正しい信者で、民とともにあがいてエホバを信じぬ不届き者どもを神の審判の邪魔をし救わんとする菩薩は極悪人なのでしょうか?


そんな神、信じるに値しますか?

もし本当に神が正義の心を持つ存在であれば、地獄に自ら捨身し不信心の者をも救おうとする菩薩を称えるのではないでしょうか。そうでないならそれは紛い物の神ではないか


旧約聖書では神は「妬む神」であると記されています。他の神を信じる者をだから許さないと。旧約の神は聖人然とした存在ではなく、恐ろしい妬み、祟る神です。

対してキリストは神について「慈愛の存在である」と説いた。それまでユダヤ人が言っていた「妬む神」というような祟り神的性格は間違いであるとして、慈愛の存在であるとし、そしてキリスト教は世界宗教になりえた。

ところがエホバは、このキリストが否定したはずの、旧約のいう妬む神という神の性格を復権させているわけです。この点が私が最もエホバがキリスト教の一派をいうことに違和感ある原因です。

自らを信心しない連中をハルマゲドンで焼き尽くすなんて祟り神という認識は、旧約の神解釈です。

慈愛でなく脅しの神に変質している。これではキリスト教とは言えません。

キリストが否定した神の性格そのもので、それが宣伝ビラでイエスイエスと看板にするのには違和感を感じます。


中世にキリスト教を批判した元日本人宣教師のハビアンはその著『破提宇子』において、旧約聖書に説かれるアダムとイブのエピソードを用いてこう批判しました。


全てお見通しの全知全能の神と言いつつ、ルシフェルとその仲間を地獄に落とすのはどういうことか?全てを知るというのなら天使がすぐに罪に落ちるということを知っていなければならない。知らなかったというのならば全てを知るというのは嘘である。また、知りながら彼らを作ったのならば無慈悲なことである。

万物の霊長として作った人間アダムとイブがルシフェルにそそのかされて禁断の実を食べ、天界を追放され、子々孫々に至るまで死苦病苦に苦しむというのも同様である。

諸神・諸仏が悪魔を降伏をしようとする姿とは大違いである。アダム・イブを守ろうともせず、本人のみならず子々孫々まで追いやるというのは理にかなったことなのか?

要するに提宇子の神はアダムの破戒することを知らないのか。知っているならば慈悲の観点に立ちアダムが罪に落ちないよう教えるべきではないのか。

とにかくキリスト教徒の説く作り話は不合理だらけである。(意訳)


キリスト教といってるが、これは旧約の伝説ですから、祟り神としての神のエピソードへの批判です。

旧約における神とは、当時の原始的な超自然的なものを恐れる感情から芽生えた思想であろうけれど、神を恐るべき祟り神というように描いている面がある。

それをキリストは「違う、神の本質は慈愛である」と彼なりに正したわけで、これのほうが信仰に値する神の姿であろうし、キリスト教は爆発的に広まったわけです。


エホバの証人の描く神像は、かつてキリストが正したはずの祟り神の性質を持った神のほうで、キリスト教からするとそれを使ったハルマゲドンによる脅しの布教は異端もいいところ。

現代のユダヤ教でもそんな思想ではないわけで、かつてのユダヤ教の悪いところを抽出して、人々の終末恐怖症を煽って利用しているだけではないでしょうか?


そんな神信仰する意味あります?

キリスト教の言う慈愛の神なら分かるけれど、ハルマゲドンで不信心の者を丸ごと滅ぼそうとする神て…

我々仏教徒は自ら考え、自らを指針として生きる人種です。そんな神には絶対従わないし、反抗します。それで滅びるなら本望。エホバを信じてないからなんて理由で滅ぼされる人々を捨て置けません。

そんな神に従って生き延びるより、自らの智を信じ、筋を通して滅ぶほうが仏教徒としては正しい。

エホバの言う神は、我々からすると全知全能の神には思えませんし、否定すべき存在に思えます。人々を滅ぼそうという神を信じるなんてどうかしています。菩薩を理想とする大乗の教徒は、神より人の側に立ちたいと思う。

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